日本人に“あなたの神様とは誰(何)ですか”と尋ねたら、様々な答えが返ってくるように、“あなたにとって愛とは何ですか”と尋ねたら、その答えは十人十色になることでしょう。あなたがイエス様を信じているクリスチャンであるならば、あなたにとって愛とは、また愛の実践とはどのようなことを言うのでしょうか。今回は聖書が教える愛、クリスチャンが御霊の導きと助けによって実践することができる愛について学びます。
I. 愛の実践はクリスチャンの特長である→①愛は公平である(申命記10:19):自分に良くしてくれる人、好感をもっている人に対して何かをすることは簡単かもしれません。しかし通常初対面である「旅人」とは信頼関係がなく、愛を示す動機が不十分です。そのような中で、或いは嫌悪感を覚える相手に対してあなたは愛を示すことができますか。
②愛は利他的である(マタイ22:39; 7:12):自分を愛することは命令されなくてもするものですが、自分にするように同様のことを他者にするようにと言われています。“愛の逆は無関心である”と言われます。他者の思い・好むこと・必要を認識するために注意深く、繊細であることが求められているのです。そのようなことを踏まえて、あなたは犠牲・負担・労力・心遣い・気遣いが伴う愛を示すことができますか。
③愛は誠実である(ローマ12:9):神様が求めておられる愛は、偽善的なものではなく真心のものです。あなたは結婚式でなされる誓約に含まれるような純粋で変わることのない愛を示すこと、示し続けることができますか。
II. 愛の実践は教会の特長である→ ①兄弟姉妹の交わりにおいて(ヨハネ13:35; 15:12; Iヨハネ4:20-21; 3:14):兄弟(クリスチャンの仲間)に対する愛は、イエス様の弟子であることを証明します。兄弟が互いに愛し合う時に、私たちは主との関係を示し、主に栄光を帰すことができるのです。また兄弟に対する愛は、神の愛を反映します。イエス様がどのような愛を実践されたか、そして今なおどのような愛を示してくださっているかを認識し互いにそれにならうのです。さらに兄弟に対する愛は、私たちがどのように神様を愛しているかを映し出しています。兄弟間の互いの愛と神様に対する愛とはつながっており、セットなのです。
最後に兄弟に対する愛は、お互いの新生の現実を反映します。兄弟の交わりが愛によって保たれていることは、お互いが確かにイエス様による救いを経験し“新しい群れ”となっていることを示しているのです。
(参考箇所:Iテサロニケ3:12; Iペテロ1:22; 4:8; ガラテヤ5:13; エペソ4:16)
②主に対する奉仕において(ヨハネ21:15-17; Iコリント13:1-3):愛は主にお仕えする動機となるものです。教会は、それに連なるクリスチャン一人一人の主に対する愛に基づいて健全に保たれ成長を続けるのです。また主に対する愛は奉仕を生産的なものとします。一人一人の賜物や信仰、そして犠牲的行動が、愛に根差したものである時に、互いの益となり、互いの徳を建て、教会のかしらであられるイエス様に栄光を帰すことができるのです。
まとめ:クリスチャンであるあなたの特長は愛ですか→私たちの神様の愛が、この世の中に転がっているような条件付きで気まぐれなものであるとしたら、誰一人愛されず、救われません。私たちがどんなに神様の愛の対象として相応しくない者であるかを考えてみる必要があります。“このような者”にもかかわらず愛してくださった神様の驚くべき選択を覚え感謝しようではありませんか。普通では(肉の支配によっては)、神様の求めておられる愛の実践は不可能です。 しかし御霊の導きと助けにより、日常生活において、神の愛を映し出す者、愛を生みだす者とならせていただこうではありませんか。