11月25日 ヨハネによる御子の紹介

人には色々な欲がありますが、ある人には“栄光欲”があります。この欲は、有名人や著名人、そして大きな会社など、高い評価を受けている人や集団などと自分との結びつきを強調して、自分の評価を高めようとする、また周りから尊敬、承認を求めるものです。“~と知り合いだ”とか“~は自分と同じ学校を卒業した”などと言って、自分の印象も操作しようとする心理です。人は自分を良く見せたいのです。他の人や集団を出しにしてもです。
 バプテスマのヨハネは自分の置かれた状況の中で、自分に対する注目をわしづかみにし、栄光を自分のものにすることが可能でした。しかし、彼はそのような誘惑に屈しませんでした。彼は自分の役割を見失うことなく、来られるお方のための準備に徹しました。今回は彼がどのように御子イエス様の紹介をしたかを学びたいと思います。(ヨハネ1:19~28)

I. 自身の正体を説明することによって (19~26節前半)
 使徒ヨハネはこの書で数多くのイエス様に関する証言(イエス様がメシヤであること)を記していますが、バプテスマのヨハネによるものが最初のものです。イエス様についての証しのために登場したヨハネのもとに、“自分たちこそが宗教の権威である”と考えるユダヤ人たちは使者を送り彼の正体について尋ねさせました。
 ヨハネは、自分はキリストではないことを公言しました。後に続く二つの否定を含め彼は、自身が“~ではない”という宣言によっても、イエス様の証言をしています。ヨハネ誕生の知らせの際に、彼は「エリヤの霊と力で主の前ぶれ」(ルカ1:17)をすると主の使いが宣言していますが、これは(エリヤのようではあっても)文字通りのエリヤではない人物が預言(マラキ4:5-6)を成就することを示しています。また「あの預言者」とはモーセが言っている存在ですが(申命記18:15)これについて新約聖書では、イエス様に適用されています。(使徒3:22-23)ヨハネはいよいよ自分の正体について、おいでになる主のために備えをするようにと「荒野で叫んでいる者の声」であると明言します。彼はイザヤの預言(40:3-5)を自身に適用しました。この箇所の文脈は、東方の砂漠に道が整えられ、神様がバビロン捕囚となったイスラエルの民を自分の国(ホーム)へと連れ帰ってくださることを言っています。このことは将来に起こることの影です。この「呼ばわる者の声」はイスラエルの最終的な帰還を述べています。それは来られるメシヤによって成就されるあがないによって、人々が神のもとへ帰ることが可能となるということです。
 使者たちの質問はヨハネの正体から、彼が授けるバプテスマの権威へと移りました。ヨハネは彼らの「なぜ…授けているのですか」に対して直接的には返答していません。彼の授けるバプテスマは、人々が罪を認め、おいでになるメシヤために備える自覚と姿勢に基づいて(それを示すために)成されるもので、悔い改めのバプテスマです。

II. 御子の正体を説明することによって (26節後半~28節)
 ヨハネの紹介するお方は、彼らの「知らない方」であり、彼の「あとから来られる方」です。ヨハネは29節以降でこのお方について明確に述べますが、ここで彼は自身がこのお方とどのような関係にあるかを述べることで、イエス様を証しし、この方に栄光を帰しています。
 彼は自分がこのお方の「くつのひもを解く値打ち」もないと言っています。靴(サンダル)を運んだり、紐を解いたりするのは奴隷の(特に低い)役目です。ヨハネはイエス様に対してそれをするにも相応しくないと認識していたのです。彼は度々自身に人々の注目が集まる中、“本体”であられるイエス様、メシヤなるお方に目を向けさせることに努めたのです。イエス様が“偉大である”(ルカ7:28)と仰っているヨハネがこれほどの謙遜を示すのであれば、私たちはどれほど謙る必要があるでしょうか。

まとめ:私がだれであるかが重要ではなく、御子がだれであるかが重要である
 御子イエス様を知った者、信じた者は、正しい意味での自尊心をもつことができます。-私たちの社会は“みんな違ってみんないい”とは言いながらも、それぞれの現場では出来る人と出来ない人、勝者と敗者に区別されます。 できる時には賞賛され、できなくなったら切捨てられていきます。 人は周囲を見て、より勝った者でありたいと願い、その願いがかなう時には高慢になり、かなわなかった時には自己卑下に陥ります。 時には“良くできる”と言ってプライドを振りかざし、時には“自分はダメだ”と言って投げやりになります。 見返してやろうとすることを原動力として頑張り、達成できなかった時には喪失感を覚えます。それはすべて神なき人間、神抜きの社会の現実です。
聖書のことばにより、まことの神様、そしてまことの救い主を知った者は、(周囲の人ではなく)神様との関係において自分の立ち位置を知ることができます。自分が罪人であると知らされます。それを受け入れ神様の前に悔い改める時、ゆるされ救われます。そして神様の恵みの取り扱いの中で特別な存在であることを認識し、神様のために生き、神様のお役に立つことができる喜びを経験し始めます。神様の栄光が生きる目的である信者にとって世の評価、人の評価は重要ではなくなっていきます。
私たちの救い主であられ、すべての源であられるイエス様に埋没する歩み、それはイエス様が注目されることを望む歩みであり、イエス様に栄光が帰せられることを求める歩みであり、そのことを自身の喜びとする歩みです。あなたはそのような歩みを望んでいますか。 

 

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