「私はクリスチャンです」と言う人が全員クリスチャンであるとは限りません。ですから「あなたは、新しく生まれたクリスチャンですか」と尋ねる必要があるかもしれません。本物のクリスチャンであれば、新しく生まれるとはどのようなことであるかを正しく説明することができるはずです。それは、新生について何を知り、何を信じているか、そして何を経験しているかについての証言を意味します。また、単に「教会に行っている」、「クリスチャン家庭に生まれた」、「バプテスマを受けた」ということが、クリスチャンであることを意味しないことを理解していることを含みます。前回に続いて今回も、新しく生まれることについて学びたいと思います。(ヨハネの福音書3章9~15節)
I. 新生は 人間的には理解不可能である
世の中のこと、宗教のことをどれだけ知っているかということは、聖書が教えている、新しく生まれることの条件には必ずしもなりません。また人間の理屈によって説明したり納得したりすることでもありません。
II. 新生は 信仰によって受け入れることである
新しく生まれることは、神様からすべての人に提供されている(超自然の)方法を受け取ることによってです。この段階を経なければ、その先の霊的祝福(神様からの良いもの)を手にすることはできません。
III. 新生は 「人の子」のみわざに基づいて実現する
十字架に“挙げられた”イエス様は、罪のある人間の救い主となられました。無条件の愛を具体的にあらわしてくださった、このお方を受け入れることによってのみ、救いは成就します。
まとめ:神のみわざである 人の新生は、イエス様の十字架のみわざを信ずることによってのみ可能である
新しく生まれることは、(肉体的な誕生と違って)明確な変化を確認することが難しいかもしれません。それは人の内面において起こることだからです。しかし、人の内面で起こったことは、結果として外側にあらわれるはずです。まことの神様を知ること、信じることにより、生活における考え方や価値観、そして優先順位に変化が生じてきます。それは人間(自分)中心の生活から神様中心の生活への変化です。それをクリスチャンになって“変えられた”、“新しくされた”と言います。これは神様のわざです。イエス様を信じた時に内に住み始めてくださった聖霊なる神様の働きです。この変化、そしてこの新生を可能とするために、人の側に必要なこと、それはイエス様の十字架の死は自分のためであったこと、自分の身代わりであったこと、自分を救うための唯一の方法であったことを信じ受け入れることです。