現在の日本において、生活のために川や井戸に水を汲みに行く人はほとんどいないと思います。しかし世界には生きて行くために水を汲むことを余儀なくされている人が多くいます。ある子供たちは水を汲む必要があるため学校へ行くことができないでいるのです。水は生きるために必要なものです。今回の箇所は井戸が舞台となります。イエス様は水を汲みに来た一人の女性に、水をお求めになるところから関係を築かれ救いの道を紹介されます。イエス様がどのようにして失われた魂を獲得されていくのかを見ていきましょう。(ヨハネの福音書4章1~15節)
I. それはご自身の愛による計画に基づいている (1~6節)
イエス様はすでに十字架を見据えて地上でのお働きを進めておられましたが、この時はまだ“その時”ではなかったためユダヤを去られました。ガリラヤへ向かわれたイエス様は「サマリヤを通って行かなければ」なりませんでした。サマリヤに住む人々は、純粋なユダヤ人ではないため、ユダヤ人から軽蔑されていました。ユダヤ人はサマリヤ人を過度に嫌っていたためサマリヤを通ることさえしなかったのです。しかしイエス様は通って行くことを選択されました。これはそうすることが神様の必要であったということです。ここに神様のご意志があらわされています。
あなたが救われるためには、イエス様があなたを探し出し、あなたのところに来る必要がありました。イエス様はあなたのところに「行かなければならなかった」ことを考えてみましょう。そうする必要のあった、神様のあなたに対する愛のお心を黙想してみましょう。
II. それは人の内面に焦点を置いてなされる(7~9節)
サマリヤにあるヤコブの井戸でイエス様は一休みされました。そして水を汲みに来たサマリヤの女性に水をお求めになりました。女性は驚きました。ユダヤ人がサマリヤ人と関わること、ましてやサマリヤ人に手伝ってもらったり、サマリヤ人が使うものを使うことはありえなかったからです。しかし、イエス様にとって、彼女が、女性であるとか、サマリヤ人であるとか、社会的にどのような立場にあるとかは重要なことではありませんでした。またユダヤ人とサマリヤ人との間に存在する宗教的・政治的不和は問題ではありませんでした。イエス様はこの女性を一人の人として、罪のあるあわれな存在としてご覧になり関わられたのです。
イエス様は、あなたの表面的なこと以上に内面に関心をもってくださり、その完全な解決のために来てくださったことを考えましょう。
III. それは人の真の必要を満たすことを目的としている(10~15節)
イエス様は確かにのどが渇いておられ、水をお求めになられました。しかし、イエス様はご自分の肉体的現状を用いて、サマリヤの女性の霊的必要を取り扱われたのです。イエス様が単にのどが渇いた旅人であったというだけでなく、霊的渇きを癒す真のお方であられることをお示しになったのです。この女性は、イエス様の正体、そしてイエス様がお語りになるメッセージの意味をすぐには理解できませんでした。また自身の真の渇きについての認識もありませんでした。満足を求めてはいても、実際に追求するものは、肉の欲、目の欲、そして暮らし向きの自慢でした。この繰り返しによっては、真の渇きが癒されることはありません。しかし、神様からの「賜物」を受け取る人は真の満足を経験します。イエス様を信じ受け入れ、イエス様がお与えになる「生ける水」を飲む人は、絶対に確実に決して二度と渇くことがないのです。人の労苦によって汲み上げられる水は、人の一時的な渇きを癒します。しかし、神様からタダで与えられる水は、人を永遠にわたって生かし(活かし)続け、外に向かって溢れ続けるのです。
あなたがイエス様によって真の必要を満たしていただいたことを確認しましょう。
まとめ:イエス様による魂の獲得は、ご自身の動機・焦点・目的と共にあなたの上に果たされた
イエス様が“あなたのところに来なければならなかった”ことを感謝しましょう。イエス様があなたの表面的なこと(社会的立場等)に関係なく、あなたのところに来てくださったことを感謝しましょう。そしてイエス様はあなたの本当の必要を満たすために、来てくださったことを感謝しましょう。イエス様に捕らえられたことの素晴らしさ、その祝福を改めて確認しましょう。