今週は受難週です。イエス様は最後の一週間をエルサレムでお過ごしになりました。そしてイエス様は十字架にかけられ死なれました。四つの福音書は、十字架上のイエス様のことばを七つ記録しています。使徒ヨハネはそのうちの三つを自身の福音書の中に記しています。これらのイエス様のことばから、イエス様がどのようなお方であられるかを学ぶことができます。(ヨハネの福音書19章25~30節)
I. それは究極の奉仕者のことば (25~27節)
イエス様が十字架にかけられた時に、少なくとも四人の女性がそばにいました。ヨハネの福音書だけが、イエス様の母であるマリヤの存在を記し、彼女たちが(遠巻きにではなく)近くで十字架刑に処せられているイエス様を見守っていたことを記しています。彼女たちにとって、目の前で起こっている事は(この段階においては)悲劇以外の何ものでもなかったのです。
この場面でイエス様は「そこに、あなたの息子がいます…そこに、あなたの母がいます」と仰いました。(これは十字架上での3番目の発言です)
イエス様は、より重要な目的のために母マリヤのもとを去っていかなければなりませんでした。しかし、ご自分の家族のことについて無関心でも無責任でもありませんでした。イエス様は苦しみの中で母マリヤの老後を気遣い、最善の備えをされました。ここにイエス様の優しいケアと憐れみ、そして奉仕者としての、お心があらわされています。奉仕の心は自分の必要よりも他者の必要を大きくとらえるのです。
イエス様は最後まで十字架のもとにとどまった弟子のヨハネに母マリヤを託しました。(親戚であったと思われる)ヨハネがイエス様にとって一番信頼のおける存在だったのでしょう。
II. それは究極の献身者のことば(28~29節)
イエス様の5番目の発言として「わたしは渇く」と記されています。失血、神経の緊張、太陽の熱等によりイエス様は極度の脱水症状にあったことが考えられます。差し出された「酸いぶどう酒」は、ローマ兵が飲んでいた安っぽいもののようで、ある程度元気を回復させる一方、のどの筋肉を極度に縮め、受刑者が叫ぶことを阻むのです。イエス様は、十字架にかけられる前に差し出された“鎮痛剤”はお受けになりませんでした。(マルコ15:23) イエス様は意識がはっきりしている中で、苦しみを受けられ、亡くなっていかれたのです。
イエス様はご自分のからだもいのちもおささげになりました。苦しみにご自分を委ねられ、快適さも手放されました。私たちをいのちの水で潤すために、渇きを経験されたのです。(詩篇69:21)
III. それは究極の遂行者のことば(30節)
第6番目にイエス様は「完了した」と仰いました。このことばには、自身の務めを果たす意味合いがあります。これは罪人のあがないのためのすべてのわざが完了するところまで来た、信仰の土台を創設することが完了するところまで来たことをあらわしています。(ヨハネ17:4)神様の目的がイエス様の(今まさに迎えようとしている)死によって達成されることの勝利の叫びです。
このことばは、当時税金が確かに支払われたことを証明する“支払い済み”の意味をもっています。イエス様はご自分の死をもって、私たちの罪の代価を支払ってくださいました。このイエス様に信頼する時、罪ついては“支払い済み”(処理済み)として扱っていだだけるのです。
イエス様はご自分の務めを果たされ、自主的に「頭をたれて」、霊を父なる神様にお委ねになりました。(ルカ23:46)
まとめ:わたしが救われるために、イエス様は、仕え、ささげ、成し遂げてくださった
十字架を見上げる時、そこには忠実なあがない主がおられます。イエス様は最後まで仕えることに徹し、ささげ尽くし、使命を完了されました。今週は、私たちの永遠の幸いのために苦しみと悩みとをお受けになったイエス様を特に覚える週です。イエス様のみわざの大きさを、素晴らしさを、深く味わおうではありませんか。イエス様のみわざの効果を体験した者たちとして、私たちも主にならって、仕え、ささげ、与えられた役割を忠実に果たそうではありませんか。