“神の存在を信じない”という方がいらっしゃいます。世界ではそのような方が増えているようです。またある統計によると日本の無神論者は、他の国々の無神論者に比べて“超自然を信じない”割合が高くなっているようです。
神の存在は信仰によって受け入れるものです。実は“神は存在しない”ということも信仰なのです。なぜなら神が存在しないことを証明することはできないからです。ですからある意味において無神論者も、有神論者と同じくらい信仰が必要となるのです。
今回の箇所では、イエス様を信じない人について少なくとも4つのことが言われています。イエス様がお語りになる不信仰な人について学びましょう。(ヨハネの福音書5章41~47節)
I. それは神様を愛さない人である (41~42節)
もしイエス様が人々(ユダヤ人)が求めた(類の)救い主であれば、彼らはイエス様を尊敬し、賛美し、従ったでしょう。しかしイエス様は、父なる神様がお喜びになることのみをお求めになり行われました。イエス様は人の内面をご存知です。まことの神様を知らない人、また知ろうとしない人は神様を愛することができません。人は神様から遣わされたイエス様を(神様として、救い主として)信じることによって、神様を知ることができます。神様を知るならば、神様を賛美し、神様に感謝し、神様が喜ばれることを行なう、つまり神様を愛する人になります。
II. それはイエス様を受け入れない人である (43節)
人の心は私たちが思う以上に罪深く堕落しているため、神様がお遣わしになったイエス様を受け入れることができません。他の人(存在)なら受け入れやすいでしょう。イエス様がお語りになる真実ではなく、世の中の常識なら抵抗はないでしょう。多くの人にとって十字架で死なれたイエス様を受け入れることは困難です。なぜなら、彼らにとってイエス様は“十字架で殺されてしまっただけの方”であるからです。
III. それは神からの栄誉を求めない人である (44節)
人は自分を造られた神様に従うよりも、周囲の人々の前での評判を確立することに関心があります。それが「自身の名」において来る人(v.43)を受け入れやすい理由です。しかし、人からの評価を求めている人は、イエス様に対する信仰を持つことができません。真の誉れが人からではなく、神様から来ることを知らないのです。
IV. それは聖書の証しを受け入れない人である (45~47節)
ユダヤ人たちにとって律法を記したモーセは大きな存在です。彼らは自分達が尊敬しているモーセや律法の教えと矛盾することを意図的にしようとは思わないでしょう。彼らは神様からの祝福を得る希望をモーセに置いているのです。しかしそのモーセが彼らの不信仰を非難するでしょう。モーセが語っている救い主イエス様を彼らは拒絶しているからです。
まとめ:イエス・キリスト様を信じない人ではなく信じる人になりましょう
不信仰な人とは、イエス様を信じていない人のことだけではありません。ある時イエス様を自身の個人的な救い主として信じ、罪がゆるされ永遠のいのちの約束をいただいているクリスチャンも不信仰な人になりうるのです。世の中の考え方や価値観に魅かれ、聖書の教えや神様が求めておられる歩みから脱線するならば、一時的・部分的に不信仰(イエス様を信じない状態)に陥っているのです。神を愛し、イエス様を受けいれ、神からの栄誉を求め、聖書の証しを受け入れることは継続的になされるべきことです。神様の恵みと助けによってこれらを続けていきましょう。イエス様に焦点を置き続け、信仰成長の歩みをさせていただきましょう。