人の命はしばらくするとなくなってしまうものであり、人が手にするどのような素晴らしいものも色あせていきます。(ヤコブ4:14; Iペテロ1:24)人間は空の鳥や野の花と同じくしおれ、枯れ、息絶えていく法則の中に存在しています。(マタイ6:25-30)
しかし人間は他の動物や草花と違って創造してくださった神様に対して責任を負っています。それは神様のために生きることです。特別に神様との交流をもつ存在として造られた人間ではありましたが 人間はその立場をわきまえず自分勝手に行動したため「死ぬ存在」となり 死んで後 終わりのない苦しみを受けることになってしまいました。
創造主であられる神様に従わない人間は迷子になっている羊のような存在です。飼い主の存在がなければ生きることができない羊、それは神様のお考えに従うのではなく自分の好きなことを選んで迷子になってしまった人間の姿です。そのようなかわいそうな状態、危険な状態にある人間を捜すためにイエス様は救い主としてこの世界に来てくださいました。イエス様は文字通り命がけで(いけにえとしてささげられる羊として)人間の救いを準備してくださいました。(ルカ15:3-7)
神様を知らない人間は失われた銀貨のようでもあります。(ルカ15:8-10) それがどんなに高額であれ所在がわからなければ 銀貨としての役割を果たすことは不可能であり何の価値もありません。人間が神様との関係において「居るべき位置」にいないとするならば人間としての価値はなく神様のお役に立つ存在ではありません。
神様によって生かされていることを知らない、或いは感謝しない人間は財産だけもらって家を飛び出していった息子のようでもあります。(ルカ15:11-32)手にしたお金を使い果たし、まもなく貧しくなった彼は実家の父親のことを思い出しました。そして彼は今までの生き方を悔い改め父親のもとへ帰る決心をしたのです。父親は息子が戻って来たことを心から喜び子牛を料理して宴会を開きました。再び親子が共に食事の席に着いたのです。すでに述べたとおりイエス様がささげられてくださった(死んでくださった)ことにより人間は再び神様との交流が可能となったのです。
あなたが今 神様との関係において迷子であったとしても解決の方法があります。今まで神様に背を向けて生きてきた罪人であることを認め、悔い改め、イエス様を自分の救い主として信ずるならばあなたは最早迷子ではありません。飼い主のもとに帰ってきた羊のようにこの先(永遠に)失われることがないのです。イエス様が十字架でご自分のいのちを投げ出してくださったことにより 神様のために生き いつまでも神様と共に生きることができるいのちを与えられるのですから。