1567年、織田信長は稲葉山城の戦いで斎藤龍興(斎藤道三の孫)に勝利し(後に岐阜城と改名する)稲葉山城に入城します。「入城」とは、戦いに勝って敵の城に入ることを言います。さて今回の箇所はイエス様が十字架にかかられる週の日曜日に、エルサレムに入城された場面です。イエス様は王としてエルサレムの都に入られたのですが、そのイエス様がどのような王であられるのか学んでみたいと思います。(ヨハネの福音書12章12~19節)
1.迎えられるべき王である(12~13節前半)
べタニヤにおいでになった次の日(日曜日)、イエス様はエルサレムへと向かわれました。大勢の人々が手に「しゅろの木の枝」をもって出迎えました。(正確にはしゅろではなくナツメヤシであると思われます。)ここには、過ぎ越しの祭りのために来ていた“巡礼者”と、ラザロの復活を目撃してイエス様を信じ従った2種類の群衆がいたと思われます。ナツメヤシは仮庵の祭りで使われるものであり(レビ23:40)、それを手に取ることは、勝者や王に対する尊敬を示すものです。彼らの「出迎え」には、新しく到着した高い位の存在を正式に歓迎する意味が込められています。
使徒ヨハネはこの福音書の冒頭で、この世界においでになったイエス様が拒絶されることについて記しています。(1:11)同時に、イエス様を心にお迎えする人(信じる人)は神様の子どもとされることを記しています。(1:12)
2.ほめたたえられるべき王である(13節後半)
ナツメヤシを手に取った人々は、イエス様に賛美をささげました。「ホサナ」は“今お救いください”という賛美の叫びです。人々は、ちからと権威とをもって来られたお方に歓迎の意を示すとともに、賛美しました。仮庵の祭りでは詩篇113~118を含む歌(ハレル)が毎朝神殿で聖歌隊によって歌われます。そして118篇25節の“ホサナ”の場面で人々(男性)はギンバイカとヤナギの若枝とナツメヤシが結ばれたものを振るのです。これらの詩篇のことばは、イエス様に、(神のもとから来られた)メシヤとしてのお名前(称号)を帰すものです。
3.謙虚な優しい王である(14~15節)
イエス様のエルサレム入城は、イエス様の時が来たことの宣言です。イエス様はろばの子に乗って入城されました。イエス様は、王らしく軍馬ではなく、征服者としてではなく、(一般人が旅に使う)ろばに乗って、平和を伝えるお方としておいでになりました。ゼカリヤは、イスラエルの王であられるお方が、華やかさや盛大なセレモニーなくして、謙遜さをもって登場されることを預言しました。(ゼカリヤ9:9)究極の平和、神様との平和、人との平和はイエス様によってもたらされるものです。
4.証しされるべき王である(17節)
イエス様によるラザロに対する奇蹟のみわざを見た多くの人々は、その証言をしました。これは継続的な行動を示しています。イエス様の昇天の後、ペテロたちは、自分たちが見聞きしたことを人々に話さないではいられませんでした。(使徒4:20)彼らは必然的にイエス様の証人となっていったのです。
まとめ:クリスチャンはイエス様が治めてくださる国の民である
イエス様を救い主として信じたクリスチャンは、栄光に満ちた国、王の王であられるイエス様の治める国民とされました。クリスチャンは、イエス様を自身の人生における王様としてイエス様をお迎えし、イエス様に賛美をささげ礼拝する者とされました。そして今、イエス様の優しい御腕に導かれる者、安心して歩むことができる者とされているのです。このような恵みに与ったクリスチャンは、ことばと行動によって唯一のまことの王であられるイエス様を証しする者でありたいと思います。