皆さんは足をちゃんと洗っておられますか。足を清潔に、そして健康に保つためには丁寧なケアが必要なようです。洗う前にしばらく足浴をすることにより、角質が落ちやすくなり血行もよくなるとか。洗う時はボディーソープよりも、殺菌作用のある石鹸のほうがいいとか。指と指の間も丁寧に。きちんと乾かすこと。そして保湿も忘れずに。
さて前回、イエス様が弟子の足を洗われた箇所を学びました。このイエス様の驚くべき行為から、私たちが学ぶべき実践的教訓を考えたいと思います。(ヨハネの福音書13章12~20節)
I. 洗足の模範(13~14節前半、15節)
イエス様は、“私の模範にならいなさい”と仰います。弟子たちが主、そして師と認めるお方が、そのような立場にもかかわらずなさったことの意味を受けとめなければなりません。神の御子であられるお方が、人となられ、しもべ(奴隷)のかたちをとられ、奉仕されました。そして究極の奉仕を十字架の上でしてくださいました。イエス様は、弟子たちの足の洗浄をされただけではなく、(もっと醜く汚れた)心の罪のきよめもされたのです。イエス様は、実際の行動を伴って、「わたしから学びなさい」(マタイ11:29)と言われます。私たちがイエス様を自分の主、救い主と認めるのであれば、イエス様のあらわしてくださった、実践してくださったみわざ(奉仕)を覚えつつ、その模範にならう者となりたいと思います。(ルカ6:26)
II. 洗足の勧め(12節、14節後半)
模範をお示しになったイエス様は、“お互いに足を洗い合いなさい”と仰います。私たちに勧められているのは、イエス様と同じように十字架にかかって死ぬことではありません。(私たちが十字架で死んでも他の人の罪をゆるすこと、きよめることはできません。)イエス様は、私たちが(イエス様がそうされたように)謙遜を伴って他の人への奉仕をすることを勧めておられるのです。励ますこと、支えること、助けること、祈ることなどを含む勧めです。相手方はそれを受け入れ、それに委ね、感謝するのです。これらが互いになされることをイエス様は望んでおられます。相手方はあなたの奉仕をいつも快く受け入れるとは限りません。ですから愛と謙遜がセットなければなりません。(誰が自分の足をおもむろに引っ張られて洗われることを望むでしょう。)“他人の足を洗う”とは、他者の個人的な領域に入っていくということでもあります。この、ある意味難しい作業は、相手の徳を立てるという良い結果・効果を見据えて行われなければなりません。私たちのする奉仕が何らかのかたちで、励ましとなり、助けとなり、“霊的心地よさ”を与えるものであるべきです。この勧めは、互いに与え合うことの勧めです。私たちは主にならって惜しみなく“互いに足を洗い合う者”でありたいと思います。
(参考箇所:ルカ22:24-27; マルコ10:41-45; Iペテロ5:5; 使徒20:19)
III. 洗足の祝福(17節)
弟子たちの足を洗われたイエス様は“しもべとして遣わされた者として、その務めを果たしなさい”と仰います。イエス様の模範にならい、他の人に仕えることを実践する時、イエス様は“幸せだ”と言ってくださいます。イエス様の勧めを快く受け入れる者には、神様からの祝福があるということです。愛と謙遜をもって“足を洗い合うこと”をイエス様は尊いこととして評価してくださるということです。そしてイエス様のことばに従う者は喜びを経験するのです。
(マタイ7:24; マルコ3:35; ヨハネ8:31)
まとめ: 互いに足を洗い合うことは、教会を建て上げることである
教会は建物ではなく、イエス・キリスト様を信じた人たちの集合・集団です。この群れが一つになることが可能であるとすれば、それは教会のかしらであられるイエス様の権威を皆が認めることによってです。一人ひとりがイエス様の模範を覚え、イエス様の模範にならうことによってです。それはへりくだる心と態度をもってイエス様にお仕えし、人に仕えることを意味します。互いに、足を引っ張りあうのではなく、また躓かせあうのではなく、助けとなり、支えとなり、励ましとなるのです。教会として、連なり繋がっている一人ひとりの歩みのために、その前進のために、そして(イエス様のからだである)教会の前進と成長のために、相互の奉仕という“洗足”は欠かすことができないものです。それは、イエス様の愛と謙遜を反映させることであり、イエス様の弟子であることを証しすることでもあります。あなたは洗足の奉仕をしていますか。また洗足の奉仕を受け入れているでしょうか。