何かを成し遂げるために、“自分は、絶対に大丈夫”と自分に言い聞かせる、思い込ませることが大事だと言う人がいます。しかし、そのようにして本当に皆が事を達成するのでしょうか。結局、自分しか頼りにならないということなのでしょうか。夏目漱石は言っています。「自分以外のものをたよるほどはかないものはない。しかし、その自分ほどあてにならないものはない」と。もしそれが本当なら人は何を当てにするのでしょうか。今回は、ペテロがイエス様との関係について否認することの予告の記事から学びたいと思います。(ヨハネの福音書13章36~38節)
I. 自身の計画は当てにならない
ペテロはイエス様にどこまでもついていくつもりでした。私たちも、こうする、と予定をたてるものです。しかし神様の計画のみが成ることを覚えましょう。(箴言19:21)私たちが計画すること、それが“主のために”という素晴らしい動機であっても、そのことが実現する条件は神様が整えられることを覚えましょう。
II. 自身の気持ちは当てにならない
ペテロはイエス様にどこまでもついていこう、ついていきたいと思っていました。私たちも一時の勢いや熱心さだけで“こうしたい”と思うことがあります。しかし、それだけでは、事を果たすことはできませんし、神様に従うことはできません。神様に対する情熱は必要ですがそれだけで行動するのは危険が伴います。(箴言19:2)“主のために”という心、気持ちは大事です。しかしその願いや思いも神様からのものでなければなりません。
III. 自身の自信は当てにならない
ペテロはイエス様にどこまでもついていくことができると思っていました。彼には自信があったようです。しかし、自分を信じることは神様に反抗することへとつながっていきます。私たちが、自分の人生からまことの神様を締め出すことほど危険なことはありません。自分が神様よりも知恵があると考えることほど愚かなことはありません。自分の弱さ、足りなさを認め、神様の前に謙虚になりましょう。私たちの計画することが、“主のために”であれば、“主を信じて”と“主によって”もセットでなければなりません。
ヤコブ書4:13~15節は、私たちの知恵とちからには限度があることを認識する必要があることを教えてくれます。私たちが生きることができるのは、神様のご計画とちからによります。それゆえ、先のことについては、神様のご計画を求め、御心に委ねることが最善です。それゆえ、謙虚さをもって一時一時を過ごさせていただく、主のために時間を使わせていただくのです。
ルカの福音書12章に登場する金持ちの安心は、彼がもっているものを土台としていました。彼は、蓄えることができ、それを楽しむことができるのは神様による、ということをまったく知らなかったのです。働く目的、蓄える目的と動機が間違っていると人は決して幸せにはなれないのです。
まとめ: 唯一 当てになる神様に頼る人は、確かな生き方ができる
人生において計画を立てることは必要です。自分の希望や願いがあっても問題はありません。しかし、神様が私たちの人生にもっておられる計画が第一なのであり、事の達成には神様の助けと導きという大前提が必要であることを忘れてはなりません。自分の生活・人生を自分でコントロールしようとする生き方を決して選んではなりません。神様の恵みによって生かされ、事を行わせていただくことができるという謙虚さをもって臨み、主にお仕えしましょう。絶対的なお方は神様だけです。自分がいかに当てにならない者であるかを認識し、このお方に頼る祝福を経験させていただきましょう。