2月7日 イエス様の最期

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最後と最期ということばがあります。「最期」は一般的には、命が終わるとき、死に際のことを意味する言葉です。これを文字通りに読むならば「この上のない時間」となります。「最期」はたった一度しか訪れないものごとの終わりを表すときに使われます。いろいろな物事の「最後」は何度も訪れるものですが、命の終わりを迎える時間は、まさに一生に一度しか訪れないものであるため「最期」なのです。今回はイエス様の地上での生涯の最期に焦点を当てたいと思います。十字架にかけられたイエス様は、なおわたしたちにとって大切なメッセージを発信しておられます。(ヨハネの福音書19章23~30節)

I. 真の必要(23~24節)
十字架にはりつけにされたイエス様の「衣」は兵士によって四つに分けられ、残りの「下着」はくじ引きとなりました。(処刑される者の衣服は兵士のものになるという取り決めがあったようです)四つに分けられた「衣」はターバン(被り物)、上着、腰帯(ベルト)、サンダルを指すのかもしれません。「下着」とは英語ではチュニックと訳され、当時肌着として使用されていたもののようですが、これについては価値を保つために分けなかったようです。兵士たちの行為は聖書の預言の成就でもありました。(詩篇22:18)
イエス様の衣服がすべてはぎ取られたことは、群衆の前で辱めを受けられたことを意味します。また同時にイエス様がすべてを手放されたことを意味します。イエス様は物質的になにかを残していかれるようなことはなかったのです。現代人が行うような「断捨離」はまったく必要のないお方でした。この世界に来られたイエス様には肉体的・物質的なこと以上に大事なことがあったからです。

II. 真の家族(25~27節)
十字架を取り巻く人々の中に、イエス様の母親マリヤを含む4人の女性と弟子のヨハネがいました。イエス様は母親マリヤに対して、ヨハネを彼女の「息子」として紹介し、ヨハネに対してマリヤを彼の「母」として紹介しています。(マリヤに話す時には、「女の方」と言い、ヨハネに話す時には「母」と言われているところは興味深いところです)ヨハネはマリヤを“自分のもの”にしました。このことは、残される母親への配慮としてヨハネを世話役として任命したと理解することができます。またこれとは別に、親子ではない二人がこれから生活を始めていくことを考える時に、それはイエス様を信じる者たちの、肉(血縁)の家族を超える交わりの現実を教えるものでもあります。

III. 真の渇き(28~30節)
イエス様は、父なる神様から託されたわざをなし遂げられていくことを確認され(ヨハネ17:4)、渇きを口にされました。「最期の晩餐」以降、おそらく何も飲んでおられないイエス様は兵士たちの暴力的な取り扱いの末に十字架にかけられ脱水症状の極みであったことでしょう。しかしこの渇きは霊的なことも示されていると思われます。イエス様は、サマリヤ人の女性に、決して渇くことのない水を与えることがおできになると語られました。(ヨハネ4章)それは、5人の夫を得てもなお満足できなかった彼女の本当の必要を満たすものでした。イエス様にとって父なる神様の御心、みわざを成し遂げることは「食物」です。イエス様は今まさにそれを成し遂げようとしてその決意を「渇く」の発言によって表明されているのではないでしょうか。
兵士たちがイエス様に差し出した「酸いぶどう酒」は、いくらかリフレッシュを与えるものの、その強い酸味が舌の筋肉を縮めて叫ぶことを困難にします。つまり、イエス様の苦しみを引き延ばすものであったのです。
イエス様はぶどう酒を受けられ、「完了した」と言われました。これは、イエス様のみわざの完了です。罪のある人間の信仰の基礎が築かれたということです。この表現はギリシャ語では一語で、税金の領収書に“支払い完了”を意味するものとして書かれたことばです。これは莫大な「罪の借金」を背負った者にとって、驚くべき祝福の宣言です。信仰の創始者であられるお方が、完成者となられ勝利者となられたことの宣言です。
イエス様はご自分の意思によって死の瞬間をお定めになりました。イエス様は死に際まで(誰かにいのちを取り上げられたのではなく)自発的に行動されたのです。(ヨハネ10:18; ルカ23:46)

まとめ: イエス様の最期は、救いのみわざの完成の瞬間である
イエス様は、ユダヤ人の過ぎ越しの祭りの週に十字架刑で死なれました。イエス様が、過ぎ越しのこひつじそのものとなられたのです。(Iコリント5:7)その昔、ユダヤ人たちは羊を殺し、その血を家の柱と鴨居に塗ることで、わざわい(死)がその家におよぶことを免れました。同様に、イエス様が十字架にかけられ、血が流されたことにより、それに信頼する者には救いがあたえられます。イエス様はすべてを投げ出し、最期まで他者に仕え、父なる神様の御心を行うことに徹してくださいました。それは、救いの可能性ということにおいてまったく絶望的な、罪のある人間のための良い知らせ(福音)です。イエス様は「罪の負債」をすべて支払ってくださいました。イエス様は、人が抱える死の問題、そして「死の向こう側」の問題をすべて解決されたのです。イエス様によって死後の幸いな選択肢は用意されています。それを信じて受け取りましょう。すでに受け取ったのであれば、イエス様のみわざを覚えて感謝して喜んで歩もうではありませんか。

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