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私たちを創造された神様は、私たちに自由意志を与えられました。それゆえ私たちは、自分で考え、決断し、行動することができます。しかし、この「自由」は神様の前において、正しく理解され運用されなければなりません。そのために、私たちの意志は、神様によってコントロールされる必要があるのです。それは私たちの人生の中で繰り返し求められる、「計画する」ということにおいてもそうです。今回は謙虚に生きるクリスチャンの姿について学びたいと思います。
I. 自分が何者かをわきまえる(自分を知る)
私たちには果たしていくべき責任があり、そのために考え計画する必要があります。(13節)その上で以下のことを覚えておく必要があります。
私たちの人生は予測不可能である:私たちには先のことがわかりません。(箴言27:1)
私たちの人生は短い:私たちが地上で生きる時間は、私たちが想像するよりも短いと思うべきです。それは、(まもなく天の国へ行くという)永遠の視点をもつことを可能にします。(詩篇39:4-6)
私たちは弱く罪深い:私たちは、神様に条件を整えていただいて生きている弱い存在です。そして私たちにはできないことが数多くあります。悪意はなくても結果的に約束を果たせないことがあります。また私たちは、なお罪の性質があり神様が喜ばれないことを選んでしまうものです。私たちは神様の前に不忠実であり、あてにならない存在です。
II. 神様を畏れ敬う(神を知る)
私たちの存在の主権者であられることを認める:私たちを造られた神様は、私たちの生死を握っておられます。明日自分が生きているかどうかは、神様次第です。(ルカ12:16-20)
私たちの歩みの主権者であられることを認める:「主のみこころであれば」(15節)と言うことができるのはクリスチャンだけです。クリスチャンはイエス様を主と告白して救われました。その時からイエス様は人生の主人となり、自分はイエス様のしもべとして歩み始めたということです。神様は、私たちの人生におけるご計画と目的をもっておられます。神様が条件をすべて整えるのでなければ、人の計画が成就することはないのです。(箴言19:21)そうであるなら、“もしみこころなら、させていただきましょう”という態度で生きるべきです。この“もし”は、私たちの人生の完璧な立案者(計画者)への確信に満ちた依存を示すものです。
III. 神様のご計画に満足する(神のみこころを選ぶ)
“私は~する”と言わない:13節のような発言は「大言壮語」であると言われています。(16節)これは自分の計画から神様を締め出すことであり、神様の摂理・供給を無視する高慢な姿勢です。
(ペテロもそのような発言をしています。マタイ26:33,35)
神を認めご計画に委ねる:神様の前に謙虚な人は、自身の希望・野望・計画・好み・こだわり・執着を放棄します。私たちは十字架の苦しみを受け入れられたイエス様にならい、受胎告知を受けたマリアにならい、働きにおける神様の導きに委ねたパウロにならいたいものです。(ルカ22:42; 1:38; 使徒18:21)
神様の計画は(自分にとって都合の良いものではないかもしれませんが)常にベストです。私たちの歩みにおける物事は、神様の恵みによって、聖霊の力によって可能になります。(エペソ3:20)そのことを認識しつつ、自身の務めを果たしましょう。私たちが神様に委ねる時、(それが神のみこころであるという確信ゆえに)一つ一つの状況に心穏やかに臨むことができます。
まとめ:謙虚なクリスチャンは神のみこころを行うことを喜ぶ
「主のみこころであれば…」という態度は、(有限である)私たちの(無限であられる)神様に対する正しい態度です。世間は、「私は絶対~するんだ」と宣言する人を称賛するかもしれませんが、神様は謙虚な者を尊んでくさいます。
謙虚であるとは無責任であってよいということでは決してありません。私たちは物事を熟考し計画し責任と務めを果たしていくべきです。しかし、明日(そしてこの先)起こる全てに関して主権を握っているのは、自分であるかのように思い行動することは傲慢です。(神様に造られ生かされていながら)神様を除外して計画し生きることは無謀であり罪深いです。私たちの人生は、すべて神の御手の中にあることを忘れてはなりません。私たちは常に、神様のみこころを行うこと、そしてみこころが成ることを喜ぶ者でありたいと思います。(詩篇104:34)