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何かを売り込もうとする場合、数字や理屈で良さを訴えるだけでなく、消費者の想像力や感情に訴えかけることで購買意欲を上げることができると言われています。それは“人は感情の生き物”であるからです。
イエス様を信じることにも、感情的要素が含まれます。信仰の感情的要素とは、神様が準備してくださった救いを、自分が必要としていること、そしてそれは自分にも適用していただけるものだという事実に目覚めること、そして同時にこれらの真理に即座に同意することを言います。これは、確かに信仰の要素の一つではありますが、唯一の特質ではありません。この要素が多すぎると、容易につまずいたり、何度も“救われる”必要を感じたりするといった状況に陥りやすくなります。
知的要素(知ること)は救われるために必要ですが、知るだけでは救われないのと同じように、感情的要素は必要ですが、これが偏ったかたちで占められると(信じていても)不安定なものとなりえます。
人々がみことばの真実の一部を、一時的には受け入れていると思われる例:
詩篇106篇では、神様がイエスラエルの民をエジプトから救い出し、紅海を奇蹟のみわざによってわたらせ、敵を一人残らず滅ぼされたことが書かれてあります。(8-11節)イスラエルの民は「みことばを信じ」賛美をささげました。(12節、出エジプト記15章)しかし、民はまもなく神様のみわざを忘れてしまいました。彼らの“信じた”のは束の間であったようです。それは一時の心の高揚で終わってしまったようです。
種を蒔く人のたとえの中には、岩地(土が薄く積もっている岩棚)に蒔かれた種の話があります。(マタイ13:20-21)これは、みことばを聞いた時に感情的・表面的な信仰の表明はするのですが、本物ではない人のことを説明しています。この人は、喜びの応答をしながらも、罪の自覚や悔い改めには至っていないようです。根が土深く入らない植物のように、その信仰は浅はかなもののようです。このような人は、自分が信じていることには犠牲が伴うことを理解する時、その先へは進めなくなってしまいます。本当に心から信じた人であるなら、イエス様のために歩み続け、最後まで耐え忍ぶはずです。
イエス様の地上でのお働きの中で“多くの人”がイエス様を信じました。(ヨハネ8:30-31)しかし、信じた人の中には口先だけの人もいたことでしょう。イエス様は本当の弟子(真に救われている人)とはだれかを明確にされています。それはイエス様に自らを委ねた人であり、イエス様のことばにとどまる人(御言葉の中に身を置く人)です。救われている人は(救われているので)そのようにあり続けるのです。
バプテスマのヨハネが活動していた時、ユダヤ人たちは彼を“人気のある、宗教の教師”として受け入れていました。しかしそれはしばらくの間だけで、結局彼が紹介したイエス様を彼らは拒みました。彼らは、一時的にはその教えを喜んだのですが、悔い改めることをしなかったのです。
まとめ:信仰の歩みは気持ちではなく真実に基づいてなされていく
信じることには、感情的要素が含まれますが、感情に頼ってはなりません。私たちのよりどころは、自分の感情ではなく、神様のことば(真実のことば)です。聖書を信じるクリスチャンは、神様ご自身と神様のことばが、信頼に価するものである という信仰(信頼)によって生きるのです。クリスチャンは感情、 または気分に頼って生活するのではありません。感情は信仰の一部ではあるが、信仰の結果の一部に過ぎないことを覚えましょう。みことばを知ることは大事ですし、みことばに感動することも大事です。しかし、これらのことを踏まえた上で、行動を起こす、決断すること(意志的要素)はもっと大事です。