行いではなく恵み

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https://youtu.be/2FXfDZ5NtV8

義認とは、神様が、ご自分を信じる人を義と認める(宣言する)行為であると前回学びました。旧約の時代に生きた人々の中にも、“神の前において正しい人はいない”ということを認める人はいましたが(詩篇143:2)、義認について絶望的であったわけではありません。アブラハムは(後にモーセ律法の一つとなる)割礼を受ける約14年前に信仰によって義と認められていました。(創世記15:5-6; ローマ4:3,10)またダビデも義が認与されることの幸いを告白しています。(ローマ4:6-8)今回は義認の方法(手段)について学びます。

義認は律法の行いによってではない
“行いによって”であるなら人は完璧に律法を守り続けなければならない:人は努力して(神の基準である律法を守ることによって)神様から恩恵を受けようとします。しかし神様の要求を満たすことができず、反ってのろい(死の宣告)を受けることになります。律法を継続的に完璧に守ることは不可能だからです。(ガラテヤ3:10; ヤコブ2:10)

“行いによって”だれも神の前に義とされない:律法は私たちに“何をすべきか”を教えますが、それを実践するためのちからを提供することはできません。
(ローマ3:20; ガラテヤ2:16)律法は人間の罪を暴露し、救いの必要を覚えさせるのみです。(ローマ3:20; 7:7; ガラテヤ3:24)

義認は神の恵みによる
イエス様はご自分のいのちという代価によって私たちのために罪からの自由を買い取ってくださいました。(ローマ3:24; テトス3:5,7)義認は神様の慈しみ深いみこころから発生しているのです。(エペソ2:4-5; Iテモテ1:13)

まとめ:罪人が義と認められるのは行いではなく恵み
日本人は、恵みを理解するのが難しい民族であるかもしれません。なぜなら恵みとは逆の報いという意識が強い傾向にあるからです。報いとは、行いや対価に応じて与えられるものです。日本人は勤勉で、真面目な民族だと言われます。頑張って努力すれば、報われると信じて、ひたすら頑張ります。ミスをしたならば、それが自分でも他人でも、責任を取ることを期待します。ですから、無条件で何かを得ることを期待するのは怠け者のすることで悪いことだと考えるのです。結果的に、日本人の多くは恵みを受けることを良しとしないのです。
しかし神様の救いの方法は“タダで無条件で恵みによって”です。それゆえこの知らせ(福音)は恵みの福音なのです。人は(行いがなくても)ただ信じて感謝して喜んで受け取ればよいのです。

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