“聖い生き方、敬虔な生き方”とはどのようなものでしょうか。それは可能でしょうか。それとも、それは理想なのであって、現実的ではないとあきらめるべき(或いはあきらめてもよい)ものなのでしょうか。私たちがどのように“聖い生き方、敬虔な生き方”を理解しようが、神様(そして神様からのみことばを受け取ったペテロ)はそのような生き方を求めておられます。
尊い生き方の勧め(11節)
すでにイエス様による救いに与ったクリスチャンには、この先に起こる天変地異の現実を念頭に置きつつ、またその災いを免れた者として尊い生き方が強く期待されています。ペテロは感嘆表現を用い、この点において“どれほどあなたは驚くほど秀でていなければならないでしょう”と訴えています。あらゆるかたちで表現される聖なる敬虔な生き方には、罪からの分離と献身、そして神様に喜ばれることを求めることが含まれます。そのような生き方をする人は一時的なことではなく、永遠のことを重要視します。物質的なことではなく、霊的なことを優先させます。その人は、来たるべきさばきと永遠を念頭に、その生き方が神様の標準に見合うものとならなければならないというチャレンジを受け取ります。(結婚前に純潔を追求するように)その人は常に“これは神を喜ばせることにつながっているだろうか”と考えて生きるのです。
尊い生き方が生み出すもの(12節)
「神の日」とは永遠の状態のことです。これは(天地が滅び、新しい創造が起こる)主の日の最終段階の次に到来するものです。それは、神様が究極的に勝利を収められる日であり、究極のさばきはこの日の到来前に起こります。パウロは、やがてあらわされる新しい創造の栄光(Iコリント15:28)を念頭に「神の日」と呼んだのかもしれません。「神の日」が来る時、“人の日”は終了します。人とサタンによるこの世界の破壊は、終わりを迎え、ついに、そして永遠にさばかれるのです。
その日を待ち望むクリスチャンの聖い振る舞いと敬虔の動機の一つはその日への期待です。クリスチャンは神様が備えておられる将来の日について恐れる必要はありません。(ルカ12:36; Iコリント1:7; Iテサロニケ1:10; テトス2:13; ユダ21 ;Iヨハネ3:3)
新しい世界の誕生には、先ず古く、罪によって呪われた環境が破壊されることが必要となります。(イザヤ24:19; 34:4; ミカ1:4)
尊い生き方の希望(13節)
クリスチャンには新天新地の約束があります。(イザヤ65:17; 66:22)質における新しさがそこには存在します。
そこには義が宿っています。義がそこに定着し、永久に座を占めるゆえ、世界は新しくなるのです。(イザヤ60:21; 黙示録21:1)千年王国では正義が治めることになるのですが、永遠においては正義が住むようになるのです。(イザヤ32:1)地上の(千年)王国では、イエス様が鉄の杖をもって支配し、義が行われますが、永遠においては(鉄の杖は不必要となり)正義が休息を見出すのです。それは罪のまったく存在しない、義の統治です。新しい世界は、すべてが神様の主権・御心に完璧に沿うものとなるのです。
まとめ:聖なる敬虔な生き方は天の御国にふさわしい
神様はクリスチャンが、この地上において尊い生き方をするように望んでおられます。それは信仰者の希望から生み出されるものです。尊い生き方であるかどうかは神様が評価なさいます。それはこの世が終わり、すべてのものが失われる時、神様の前に最後に残る性質(人格)から表現されるものです。神様は聖徒であるクリスチャンを特別に扱われるお方です。(詩篇4:3)そうであるなら神様の前にあって聖なる敬虔な生き方を追求すべきではありませんか。