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使徒パウロは、今回の箇所から4章にかけて、“信仰のみ”に集中して手紙を書いていきます。義と認められるための唯一の手段である信仰の、性質と意味するところを明らかにしていきます。その中で信仰といくつかのことを比べています。「律法の行い」(3:28)、「行い」(4:1~8)、「割礼」(4:9~12)、「律法」(4:13~16)、見えるところ(目の前の現実)(4:17~22)との比較です。今回は、宗教改革の“五つのソラ”と言われる中の一つでもある、信仰のみ(ソラ・フィデ)の導入部分を学びます。
*信仰による謙遜(27節)
パウロが書いている「私たち」とは、特にユダヤ人を指していると思われます。ユダヤ人は、まことの神様との関係(ローマ2:17)、そして神様から与えられた律法を誇りとする民族です。(ローマ2:23)しかし、救いという点においては誇ることができないとパウロは指摘しています。(ローマ4:2; Iコリント1:29; エペソ2:9)これが26節までに書かれたことの結論です。もし、神様の律法を守ることによって義認(救い)が実現するのであれば、それは誇りになるでしょう。しかし、クリスチャンは、自分がすべての罪を犯し、イエス様がすべての救いを成し遂げられたと告白します。イエス様に対する真の信仰は、すべての人間的努力や改善、自力による救済を否定し、ただ救い主イエス様を見上げるのです。神様の律法を完璧に守ることができない私たちには自ら誇るところがないのです。
*信仰による義認(28~30節)
(神様の律法の基準を到底満たすことができない)人は、律法を行うこととは関係なく、イエス様を信じることによって、義と認められます。パウロは信仰による義認(救い)を繰り返し強調しています。(ローマ5:1; ガラテヤ2:16; 3:11; 使徒13:39)
義認が律法の行いによるのなら、律法の中にいる人のみ、義と認められることになります。つまり、神様はユダヤ人だけのお方、神様が与える救いはユダヤ人だけのものということになります。しかしまことの神様は(ユダヤ人だけでなく)すべての人のためのお方です。(ローマ9:24; 10:12; 15:9; 使徒10:35)福音とは、すべての人のためのものであり、イエス様の死は全世界のため、無代価の救いはすべての人のために提示されているものです。真の神様は唯一です。(申命記6:4)それゆえ、全人類のための救いの道はただ一つなのです。ユダヤ人であってもなくても、ただイエス様を信じる信仰によって義認(救い)は適用されるのです。
(ローマ4:9-12,16; ガラテヤ3:8)
*信仰による従順(31節)
パウロが、“律法を守ることなしに義と認められる”と主張すると、“信仰があれば律法は不要”(律法に価値はない、律法は無視すべきだ)とする誤った教えの擁護者であると非難を受ける可能性があります。パウロは(6~7章でこの件について詳しく説明していきますが)この箇所では、神様からの恵みにより信仰による救いは、律法をけなすものでもおとしめるものでもないことを述べ、むしろ律法の真の重要性を提示します。
先ず、この福音は、律法を守れなかった者に要求される死の罰の代価を提供します。本来、律法を破る者は永遠の滅びのはずです。しかし福音は、律法を破った報いをイエス様が代わりに受けられたと告げるのです。律法を破った者(守れなかった者)はイエス様の身代わりの死を自分に適用できるのです。また、この福音は、律法の当初の目的を成就します。律法は、人が神様の正義の要求を満たすことがまったくできないことを示す養育係の役目を果たし、イエス様へと人々を導くのです。
(ガラテヤ3:24)
信仰による救いという福音は、律法の要求は完全に満たされなければならないということと、それが完全に満たされたということを主張することによって律法を支持しているのです。
クリスチャンは、律法を守ることによって救いを得たのではありませんが、神様のみことばを信じて従う時に、神様をお喜ばせすることができます。信仰者はイエス様を信じるからこそ、みことばが教えていることに従うのです。
まとめ:クリスチャンは信仰によって義認の立場を得た
私たちは、人の功績を称賛し、何かを成し遂げた人が注目され評価される世の中に身を置いているため、感覚的には、“行いによる救い”に傾きやすいものです。何もしないで受けた人、助けられた人が、“何もしなかった、ただ受け取った”ということをもって称賛されることはありえないと思うからです。
しかし、聖書が教える、信仰による救いは、全面的に神様がされたことを受け入れ受け取ることを意味します。そこには“私の側がした何か”は含まれません。“信仰による”のですから、決して自分の“行いによる”と勘違いしてはいけません。義認はイエス様に対する信仰のみによります。私たちに誇ることができるものはありません。誇るのはイエス様のみです。


