不敬虔な者の義認(ローマ4:1~8)

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義と認められることは、新約時代の新しいシステムではなく、旧約の時代にすでに示されていたことです。パウロは4章のほとんどをアブラハムに費やし、神様が彼をどのように取り扱われたかについて語ります。新約聖書の筆者は、信仰について語る時、アブラハムを引き合いに出します。(へブル11章、ヤコブ2章)今回の箇所では、前の章の27~28節で述べられた、信仰の法則による誇りの消滅について、そして信仰による義認について説明していきます。

*アブラハムが見出した義認(1~3節)
パウロは、信仰のみによる義認について証明するために、アブラハムのケースを用いています。なぜならユダヤ人は彼を正しい人のお手本として見ているからです。また(行いによる義を堅持する)ユダヤ教は、ユダヤ人の族長たち(先祖たち)の信仰から逸脱しているからです。1節の問いかけで強調されているのは、(結果的に)授かった好意的な立場のことです。神様は、好意(恵み)を示すことも、差し控えることもおできになる権威をもっておられるお方ですが、そのお方の前において、アブラハムはどのような立場にあるかということです。同時に、アブラハムは特別な(例外的な)立場にあるのかということです。アブラハムが学び、経験したことは、将来の世代にとって価値のあることです。
義認が行いによるなら、アブラハムは、神様の御前で誇るすべての権利を持っていたと言えるでしょう。前の章の27節では、「誇り」と「行い」が結びつけられていますが、神様の御前では誇る理由は消滅します。それゆえ、義認は神様の栄光のためであり、人のではないということです。アブラハムは、神様と近い関係にありましたが、それは彼の行いによるのではありません。パウロの前の時代のユダヤ教においては、アブラハムの敬虔さや従順さが非常に重んじられていたため、パウロはこの点を強調する必要があったのです。
アブラハムは信仰の人ですが、信仰は、救いを獲得する功績として数えられるべき行いではありません。信仰は、義認の根拠では決してありません。信仰は、義認を受け取る手段であり、信仰自体も神様からの贈り物です。「義と認められた」という表現の、“認められる”とは、“~の勘定に入れられる”という意味です。パウロが引用した創世記15:6は、義認を教えている明確な聖句の一つです。この時、アブラハムには子どもがいませんでした。しかし、彼は、天を見上げさせ(星の数を数えさせ)た神様の約束を受け入れ信頼したのです。これが、神様のアブラハムに対する義認宣告の根拠です。アブラハムの信仰が義と同等のものであるとされたという意味ではなく、神様は(アブラハムが持っていない)義の立場を、彼の勘定に入れたということです。彼に義の身分を与え、それが彼のものであるかのように取り扱われたということです。彼が「信じた」とは、アブラハムが、神様のことばを確かなものとしてしっかり寄りかかったということです。感情的な「信じたい」という願望の表明ではなく、神様の約束を確固たる真実として受け取り、その言葉に自分の身を預けたということです。これは神様の側だけの手続きです。アブラハムにはなかった義を、神様は彼の勘定に入れてくださったのです。アブラハムの信仰のあり方(性質)は、新約時代の信仰者のあり方と同じです。イエス様(メシア)を通してなされた神様のみわざを(時代的に)どちら側から見ているかの違いです。アブラハムにとっては暗示的、新約時代の信仰者にとっては明示的なものですが、どちらも信仰の対象は同じです。アブラハムは(明確でなかったにせよ)イエス様を指し示す約束に信頼したのです。

*働きがない人の義認(4~5節)
パウロはこれらの節で信仰と行いを比較しています。話を(ユダヤ人のみならず)すべての人に広げ、義の宣言が、人の行いとは無関係であることを明確にしています。(働きには報酬が支払われますが)信じる者には神様から、贈り物として義の立場が与えられます。もし救いが人の骨折りを根拠としているとするなら、神様は救いを“負債のように”支払う義務があることになります。しかしそうではありません。神様は人間に借りがあるわけではなく、人間の行いは、神様に義務を生じさせません。救いは100%神様の恵みなのであって、報酬ではないのです。救いは、常に信じる者に対して、神様の主権的働きの中で与えられる恵みの贈り物なのです。「不敬虔な者」への義認の事実は、神様の無償の恵みの強い輝きを示しています。神様は単に行いのない者を義と認めるということではなく、人がどのようなものに値するかに関わらず、それを実行されるということに、神様のみわざの素晴らしさを見ます。

*ダビデが理解した義認(6~8節)
パウロは、ダビデの悔い改めの詩篇の一つを引用しています。これは、ダビデが、バテシェバとの姦淫、そして彼女の夫を殺害した後のものです。この詩篇は、信仰者の生活における罪が義認を無効にすることはないことを示しています。神様は赦してくださいますし、神様の贈り物を取り消すこともされません。神様が、ダビデに罪を認めないという行為が、赦しを確立させたのです。

まとめ:義と認められた信仰者は、主を誇り主をほめたたえる者
そもそも創造主なるお方が救いのご計画をされなければ義認は存在しません。神様は時を定め、約束にしたがって、御子を遣わし、人の根本的な問題の解決のために必要なすべてを備えられたのです。それゆえ、救われる資格がないだけでなく、滅ぼされ罰せられる十分以上の理由がある私たちが、ただ御子とそのみわざを信じるのみで義認(救い)の立場を得たのです。これがイエス様の受肉が尊く、喜ばしく、ありがたい理由です。これがお生まれになったイエス様、そして御子を遣わされた神様を誉めたたえる理由なのです。

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