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私たちは、本当の愛を知らない世界に生きています。それは本当の神様を知らないことによるものです。世の終わりに向かう中、愛を知らない世界は様々なところに影を落としています。家庭においても社会においても、本当の愛が存在しない中で、人々は互いを傷つけあっています。唯一の希望は、愛そのものであられるお方のもとへ帰ることです。本当の神様を知り、本当の愛を知ることです。イエス様を信じたクリスチャンはこの愛を知ることが出来ました。それは、神様が提示してくださったからです。
*神の愛:確かな希望の根拠(5節後半)
(前回学んだように)義認の結果、恵みの立場をいただいたクリスチャンは、苦難さえも喜ぶことができます。苦難が究極的には希望を生み出すからです。その希望が失望に終わらない理由がここで述べられています。希望が神様の愛と結びついているということです。神様は私たちを愛しておられます。人はイエス様を信じた瞬間に、神様の永遠の愛を認識し始めます。それは(結果的に)、自分が天国へ迎え入れられることの確信へとつながります。神様の愛は、惜しみなく溢れるほど私たちの心に注がれているのです。神様は私たちの心の中に、“神に属する者である”との証拠を植え込んでくださいました。その事実の中で、(先ず私を)愛してくださったお方を愛することができる者とされたのです。(エペソ3:19)信じた人の内に住まわれる聖霊は、私たちに対する神様の愛の驚くべき証しです。聖霊を受けることによって、“神ご自身がこの私をひとりの人間として本当に愛しておられる”という確信を持つことができるのです。内住の聖霊の存在自体が神の愛を反映し、聖霊が神様の愛を教えます。そして聖霊を“経由して”、私たちは神様の愛の特別な対象であることを認識することができます。また救いの、将来の側面についても聖霊が確かな保証となります。(ローマ8:9,14,16; ヨハネ7:38~39; Iコリント6:19)イエス様にあって見出された祝福は、聖霊を通して神様の民へと注がれたのです。さばきの日を前にして、クリスチャンが確信を持つことができるのは、神様の愛の事実を知的に認識しているだけでなく、また十字架上で神様の愛があらわされたことを認識しているだけでなく、神様が私(個人)を愛しておられるからなのです。
*神の愛:無力な者たちのための死(6~7節)
パウロはイエス様の十字架に見いだした愛について掘り下げます。人はまったく無力で、神様の介入なしには救いが不可能な状態にあります。自身においてはいかなる義も実践する能力を持ち合わせていないのです。神様を信じない人、回心していない罪人は霊的に死んでおり、自身で何もすることができないのです。(エペソ2:1; ヨハネ6:44)しかし、神様がお選びになった適切なタイミングで、救いのみわざは実行にうつされました。(ガラテヤ4:4)神様の愛は貫かれています。神様が、人をどれほど愛したいと思われるか、ではなく、ご自身のご性質の一貫性を土台としているからです。神様の究極の愛のわざは、私たちが最も好ましくない、歓迎されない状態の時にあらわされました。(エペソ5:2)
*神の愛:犠牲を伴う表現(8節)
神様の愛は、罪人が神様に対して反抗している真っ最中に示されました。神様の愛は、この世界では見出されない、超自然的なものであり、人間の中で最も偉大な愛と認識されうるものを圧倒するものです。(ローマ8:32; Iペテロ3:18; Iヨハネ4:9~10)
まとめ:神の愛は私に示された
神様の愛は、「正しい人」でも「善良な人」でもない、ただ永遠の刑罰に値する者に示されました。私たちは、神様の愛の対象としてまったく相応しくありません。私たちは、その愛を受け取るにあたって何も働きかけをしていません。神様の愛は、私たちが何者であるか、何をしたかを根拠とはしていないのです。しかしこの愛は、感謝して謙って受け取るすべての人に溢れるかたちで注がれます。クリスチャンは神様の愛を知り、体験し、今霊的に生かされています。神様の愛を反映することが出来る者とされているのです。愛をいただいたので、示すこと(与えること)ができる者とされているのです。愛が冷え切っているこの壊れた世界で、神様の愛を反射させることができるのです。(Iヨハネ4:19)


