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新しいものを購入しても、なお古いものを使い続けるということがあるかもしれません。クリスチャンは“新しくされた”のに、なお“古い”生き方をしていたらどうでしょう。
パウロはこの手紙で、先ず人間を断罪し、罪のある人間は神の義を必要としていることを述べます。(1:18~3:20)次に、神の義が提供されることによって、義認(救い)が実現することについて述べます。(3:21~5:21)パウロは、6章から(8章までで)救いをいただいている者が神の義を示す聖化の歩みについて述べていきます。
パウロは先ず、“罪が増すところに恵みが満ち溢れる”ことについての明確な説明をします。パウロは次のような批評を予期したようです。“神の恵みのみによる義認を説きつつ、人々に罪を犯すことを励ましている”と。恵みの福音の教えは、人の罪の生活を寛容に扱ったり、或いは罪を助長することになるのではないかと。(パウロは6~8章でこれを断固否定しています)
パウロは答えを述べつつ、イエス様のみわざを通して新しくされたクリスチャンが、知っておくべきことを提示します。
*私たちは罪に対して死んだ者(2節)
私たちが罪に対して死んでいるのであれば、罪の中に生き続けることは不可能です。イエス様は、私たちの身代わりのためだけでなく、代表者としても死なれました。イエス様が死なれたということは、私たちも死んだのです。そうであるなら、私たちは罪に対して死んだ者とみなされているのです。それは、私たちには、罪がないということではなく、イエス様と一つであるということ(イエス様と“一体化”したものとして扱われているということ)です。
パウロは1節の問いかけを強く否定します。このような発言への断固拒否の姿勢には、発言者への激しい怒りが含まれています。パウロは、“罪は死んだ”とは言っていません。“罪がもたらす害に対して死んだ”と言っているのです。これは、クリスチャンの日々の罪との格闘のことを言っているのではありません。これは(過去に)すでに完了した一度の出来事を言っています。クリスチャンはキリスト様にある者であり(6:11; 8:1)、キリスト様は信じた者のために死なれたので(5:6~8)、キリスト様と共に死んだ者と勘定されているのです。これが6章の土台となる教えであり、パウロは、この先この点について説明していくのです。
罪に対して死ぬとは、罪の害に対する自身の立場を変えるということです。(6:11; 7:4,6; ガラテヤ2:19; コロサイ2:20; 3:3)(神様の視点において)死は罪からの解放と最終的勝利の確証を与えるものです。これは、一つの罪も犯すことができなくなったという意味ではなく、罪によって支配された生活を続けることは不可能になったという意味です。
*私たちは主の死にあずかるバプテスマを受けた者(3節)
2節でパウロが述べた、罪に対して死ぬことは、「キリスト・イエスにつくバプテスマ」を受けることによって可能になります。ここでの「バプテスマ」はすべてのクリスチャンが経験していることです。救いに与る信仰をイエス様に置くことによって、クリスチャンは霊的にイエス様の中に浸されている(一体とされている)のです。水のバプテスマはこの現実を象徴します。
イエス様の「死にあずかるバプテスマ」は、クリスチャンが、特にイエス様の死と復活とつながっている(関係している)ということを示しています。ここでのバプテスマはキリスト様と共に死に、共によみがえったということに焦点が置かれています。
*私たちは新しいいのちに歩む者(4節)
クリスチャンは(水のバプテスマが示すように)信仰によってイエス様と一つとされたので、死も葬りも私たちのものであるという位置付けです。(ガラテヤ2:20)罪人の身代わりとして死なれたイエス様には復活が必要でした。それは、神様のご性質が完全であることが示されるためにです。イエス様が墓に留められ続けることは、素晴らしいご性質に反することなのです。
イエス様にあって共に死に、共に葬られたのであれば、復活においてもイエス様と一つにされているのです。私たちの歩みに、新しい生き方の原則である、新しい質/性質が与えられています。これが新生において起こることなのです。(エゼキエル36:26; IIコリント5:17; ガラテヤ6:15)救われた者は、新しい歩みが可能となりました。それゆえ新しい歩みが期待されているのです。罪は私たちの古い生活を説明するものですが、義は私たちのイエス様にある新しい生活を説明するものです。
まとめ:クリスチャンは、罪の中にではなく、新しいいのちに歩む者
イエス様と一つになった者は、罪の中にとどまる生き方をすることができません。イエス様の死は、罪の罰からの解放だけでなく、罪のちからからの解放も可能にしたのです。イエス様を通して与えられた義認は、神様の前における有罪判決を取り消しました。罪を赦された者は、聖化の過程の中で、罪を犯し続けることから解放されていきます。クリスチャンの歩みはイエス様にある立場と完全に一致することはありませんが、より一致する方向に前進しているべきなのです。
イエス様は罪に対して死なれました。(8~10節)そして私たちはイエス様と共に死んだのです。(3~7節)それゆえ、私たちは罪に対して死んだ者であり(2節)、イエス様にあって新しい歩みをする者なのです。


