聖書の神は救いを用意された:イエス様の死の重要性

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https://youtu.be/KhuyKmfRt_E

クリスチャンは聖書を神のことばとして信じます。そして聖書の神様を信じ、聖書の神様によって人は造られたことを信じます。人は罪を犯し堕落しましたが、神様は回復(救い)の道を備えられました。聖書の救いを語る時には、イエス様の死を語らなければなりません。
イエス様の死は歴史上の事故でも偶然でもありません。イエス様は、自ら死を選ばれ、その死の効果を人々に提供してくださいました。それゆえその死はイエス様による事業であると理解できます。今回は、イエス様の死が聖書の中に予告され、記録されていることを確認します。

I. イエス様の死を指し示すささげもの(予型、比喩)
最初の福音(創世記3:15):神様が(エバをそそのかした)蛇をのろわれた後(14節)、“霊的蛇”であるサタンをのろわれました。同時に「女の子孫」として来られるイエス様が致命的な打撃をサタンに加えることを宣言されました。
アダムとエバのための皮衣(創世記3:21):最初に死を経験したのは最初に罪を犯したアダムとエバではなく動物でした。彼らが衣服として皮衣をまとうためには動物が殺されなければなりませんでした。これは(後に)罪のある人間の贖い(救い)のためにイエス様が身代わりに殺されることの影です。
アベルのささげもの(創世記4:4):アダムの息子アベルのささげものが神様に受け入れられたのは(明確には書かれていませんが)彼が、神様が命令されたことに従っておささげしたからです。
モリヤの山での雄羊(創世記22:13):アブラハムは神様の命令に従い息子イサクをささげることを決断しましたが、神様はそれをとどめられ、代わりのいけにえ(雄羊)を用意されました。このことにおいて、身代わりの概念が紹介され、イエス様の死において究極的な成就を見ます。
族長達のささげもの(創世記8:20; 12:7-8; 26:25; 33:20; 35:7):ノア、アブラハム、イサク、ヤコブたちはそれぞれ神様の前に祭壇を築き、ささげものをしています。
過ぎ越しの小羊(出エジプト記12:1-28):イスラエル民族がエジプトの奴隷であったところから解放される際には、傷のない一歳の雄(羊)が屠られ、その血が門柱と鴨居に塗られました。それが神様からのわざわいを免れるための方法となりました。(後に)おいでになり死なれたイエス様を信じる人は、イエス様の血(死)ゆえに、(本来受けなければならない)神様からの罰を免れることができるようになりました。

その他のささげものについては以下を参照:全焼のささげものなど(レビ記1~7章)、マノアのささげもの(士師記13:16,19)、エルカナの年ごとのささげもの(Iサムエル1:21)、サムエルのささげもの(Iサムエル7:9-10; 16:2-5)、ダビデの全焼のささげもの(IIサムエル6:17-18)、エリヤの全焼のささげもの(I列王18:38)、ヒゼキヤのささげもの(II歴代29:21-24)、エズラの時代のささげもの(3:3-6)、ネヘミヤの時代のささげもの(10:32-33)

II. イエス様の死を指し示す預言
裏切られること(詩篇41:9; 使徒1:16):イエス様の身近な弟子の一人であったユダはイエス様を祭司長たちに銀貨30枚で売り渡しました。
(ゼカリヤ11:12-13; マタイ26:15; 27:9-10)
十字架にともなう出来事(詩篇22:1,7-8,18; マタイ27:39-41,45-46; ヨハネ19:23-24):人からの苦しみ、父なる神様に見捨てられる苦しみ、すべてを奪われる苦しみをお受けになられることを、イエス様は預言のとおりに経験なさいました。(イザヤ53:5; ダニエル9:26)
羊飼いが打たれること(ゼカリヤ13:7):羊飼いであられるイエス様が捕らえられていく時、羊である弟子たちはイエス様を見捨てて逃げていきました。イエス様はそのような者たちのためにも「泉」を開いてくださいました。(ゼカリヤ13:1)それはイエス様の十字架の贖いによるきよめの手段を象徴しています。
復活(詩篇16:10; 使徒2:22-28):イエス様の死の先にある復活も聖書は預言しています。

III. イエス様の死の情報量
イエス様の地上における生涯の最後の三日間の記録は4つの福音書の5分の1を占めています。また新約聖書でイエス様の死についての直接的言及が175回以上に及びます。

まとめ:イエス様の死は計画され確かに遂行された
イエス・キリスト様が死なれることは、神様がご計画され準備されたことです。イエス様が人となってこの世界に来られたのはまさにそのためでした。「死に向かって」の準備の重みをお覚えたいと思います。
私たちはイエス様の生涯を“興味深い歴史”としてとらえているのではありません。自分との個人的で直接的な関係のある出来事としてイエス様の死をとらえているのです。それゆえイエス様の死は理解と想像をはるかに超えるものです。同時に、イエス様の死ゆえの祝福の大きさを感謝し、その事業(みわざ)ゆえに神様をほめたたえるのです。
イエス様の身代わりの死のゆえに、そのことを個人的に信じたゆえに、私たちはイエス様とつながり、イエス様に属するもの、イエス様の所有となったのです。そして驚くべきことに、“イエス様は私のもの”と告白できる立場にあるのです。
イエス様は死んだ者を生かすことができる唯一のお方です。死ななければならない者を永遠に生かすことが出来る唯一のお方です。

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