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人は皆自分の「居場所」を求めていると思います。言い換えれば、人から認められたい、評価されたい、役に立っていると思われたいということでしょう。それらのことの中に、人は生きる目的や生きがい、そして幸福を見出すのでしょう。しかし「居場所」がないと感じている人は、想像以上に多いのではないでしょうか。それは本当の居場所を提供してくれる存在を知らないからです。
イエス・キリスト様の十字架の死の後の出来事といえばアリマタヤのヨセフによる埋葬が際立ちますが、今回は脇役的な存在と思われるような女性たちに光を当てたいと思います。彼女たちこそが、人としての本当の居場所とその祝福を教えてくれることでしょう。
*イエス様の死を見届けた女性たち:カルバリの丘(刑場)に向かうイエス様には多くの人々がついていきました。(ルカ23:27)その中に今回注目したい女性たちも含まれていたかもしれません。イエス様が十字架にかけられた時、複数の女性たちがそばにいたことが名前とともに記されています。(ヨハネ19:25-26; マルコ15:40; マタイ27:55-56)
*イエス様の埋葬を見届けた女性たち:イエス様の死後、ある女性たちは遺体の埋葬を見守りました。彼女たちは「よく見ていた」と書かれています。(マルコ15:47)同じ言葉が“考える”とも訳されています。彼女たちは何を考えつつ見ていたのでしょう。(ルカ23:55; マタイ27:61)
*イエス様の復活の証言者となった女性たち:マグダラのマリアを含む女性たちは、イエス様の墓が空であることを確認し、御使い(或いは青年)からのメッセージを受け取りました。(マルコ16:1-6; マタイ28:1; ヨハネ20:1)彼女たちは、イエス様復活のメッセージをペテロたちに伝え(マルコ16:7-8,10-11)自らイエス様に会いました。(マルコ16:9; マタイ28:9-10; ヨハネ20:14-18)
女性たちはイエス様のためにできることをした:ルカの福音書には、イエス様の十字架刑を見ていた群衆や百人隊長の様子が記されています。(ルカ23:35,47-48)しかし同じようにそこに居合わせたある女性たちは単なる傍観者ではありませんでした。(ルカ23:49)
女性たちの心は主とともにあった:イエス様を慕う心は、日曜日の早朝に彼女たちをイエス様の墓に向かわせました。(ルカ24:1)そこでイエス様復活のメッセージを受け取ることになったのです。(ルカ24:4-7)
女性たちは主に用いられた:彼女たちはイエス様の復活について弟子たちに報告しました。(ルカ24:9-10)イエス様の死と埋葬を間近で見届け、御使いからのメッセージを受け取った彼女たちがイエス様の復活の証言者として用いられたのです。
まとめ:主を慕う者は主に尊く用いられる
イエス様の十字架刑から埋葬までの間、(弟子のヨハネを除いて)イエス様の(男性の)弟子たちのことは記録されていません。イエス様の十字架の周りには(議員、兵士、百人隊長、二人の犯罪人たちを含む)群衆がいました。(マタイ27:39-44)そのような中で、神様はある女性たちの存在をあえて記録させたことには意味があります。
女性たちの中の一人、マグダラのマリアは、イエス様に七つの霊を追い出してもらいました。(ルカ8:2)彼女のイエス様に対する深い愛と感謝は、刑場にいたこと、埋葬を見届けたこと、墓に向かったこと、そしてイエス様の遺体を引き取ろうとまでしたことにあらわれています。そのマリアに、復活されたイエス様が最初に現れてくださったことは偶然ではありません。(マルコ16:9)彼女の愛をイエス様は尊んでくださったということです。マリアはイエス様に出会って、居場所を見出し、イエス様にあってその居場所にとどまり続けたのです。それはマリアが主を愛するがゆえに、居るべきところにいることができたということでもあります。(姿を見ても最初は認識できませんでしたが)復活されたイエス様の呼びかけに反応し、イエス様を認識できたことは、イエス様との関係において彼女がどのような位置にいたかを説明しています。
私たちは自他ともに、行動(活動)を評価しがちではありますが、(私たちの救いのために死んでよみがってくださった)イエス様のための働きは、イエス様に対する愛が出発点(動機となる原動力)でなければなりません。究極の愛を示してくださったイエス様を見続ける、イエス様のことを深く考え続ける(黙想する)時に、イエス様に対して愛の応答ができるようになります。イエス様を愛する人は、イエス様にあって居るべき所を見出し、結果的に、イエス様にとって価値のあるかたちで使っていただける(活動できる)人とされていくのです。