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「威光」とは、人をおそれさせ、従わせる力や勢いのことです。イエス様には神としての威光があります。ペテロを含む使徒たちはそれを目撃した者達としてその証しをしています。彼らの(イエス様の威光に関する)証言の確かさについて学びましょう。
I. 使徒の証言の確かさ(16節):私は見たのです
*メッセージの中身:ペテロはイエス様の「力と来臨」について語りました。ペテロがこの箇所で挙げているポイントは、イエス様の「来臨」であり、これを、“力強い来臨”、或いは“力を帯びての来臨”という意味で語っています。イエス様の再臨(お帰りになられること)により、イエス様の治められる御国は御力の中で見えるかたちで始まるのです。その時、死んだ者は復活させられ、さばき(裁判)が行われます。「力」あるお方は、「不法の者」(IIテサロニケ2:8)を滅ぼし、死者を呼び出してさばき(ヨハネ5:27-28)、御国を完成してくださいます。(黙示録11:15-18)ペテロは、以前は隠されていた“新しい啓示”を提供したのです。
*メッセージの根拠-そうでないもの:ペテロのメッセージは、人間的な知恵や計算の中で作り上げられた神話や伝説ではありません。聖書の教えを「嘲る者たち」(3:3)は、クリスチャンの栄光ある希望は、人工(人為)的な預言に基づいていると主張します。また偽教師たちは、使徒たちが語った、イエス様の受肉や復活、そして御国の到来は単なる物語であると主張します。ペテロはすでにそのような非難を受けていた可能性があります。
*メッセージの根拠:ペテロは“イエス様の威光の目撃者になることによって”メッセージを伝えていると語ります。彼はある特定の時に自身の目で見たのです。「威光」はイエス様の変貌(御姿が変わること)において示されたことです。ペテロを含め使徒たちは、イエス様の奇蹟や復活の御体、そして昇天の目撃者なのですが、ペテロは次の節で説明する特定の出来事に念頭を置いているのです。彼はイエス様の再臨のメッセージを語る上で、イエス様の変貌の目撃体験をその基盤に置いているのです。ペテロ、ヤコブ、ヨハネは、将来における御国の栄光の中におられるイエス様を見させていただいたのです。
II. 使徒の証言の確かさ(17節):私は聞いたのです
ペテロは(17-18節で)自分がいつどのようにイエス様の威光の目撃者になったのかを説明しています。ペテロが目撃者となった時、父なる神様は、イエス様がご自身の子であることを公に承認されました。これによってイエス様は「誉れ」をお受けになりました。イエス様は変貌により天上の輝きを放たれました。この輝きは神としての属性を放つ光です。これはイエス様が「栄光」をお受けになったことを意味します。ペテロたちはこの場面で、比類のない、父なる神様のイエス様に関する宣言を聞きました。“この者は、本質において私とともにいる”と述べられ、御子イエス様の神性を主張されたのです。父なる神様にとって御子イエス様は満足を与えるご存在であり、その喜びは御子の上に降りとどまっているのです。この場面において、メシア(救い主)としてのイエス様が示され、王としての栄光の予告編が披露されているのです。イエス様の地上における、癒しや教え、そして御国へ魂を迎え入れる働きは、再臨の時に建て上げられる地上の王国がどのようなものであるかをいくらか説明するものです。
III. 使徒の証言の確かさ(18節):私はその場にいたのです
ペテロは、“私たち自身は、そこに居合わせたのだ”と証ししています。イエス様の御姿が変わったことにより、普通の「高い山」は「聖なる山」となりました。ペテロの証言を前にするならば、イエス様の威光と再臨を否定する偽教師たちを信じる理由はありません。彼らはその山におらずイエス様の御国と栄光の予告編も見てはいないのですから。
まとめ:イエス様の威光の目撃者の証言は重い
新約聖書の著者の多くは、実際にイエス様と会い、共に過ごし、教えを受け、イエス様を直接体験した人たちです。それゆえ彼らの語ることばは重要であると言えます。彼らの証しを、神様からのメッセージとして受け取ることが重要です。ペテロは不完全な人ではありましたが、その事実が彼の語る内容の価値を下げるものではありません。神様は彼を使い、大切なメッセージを届けてくださいました。私たちは彼の証し、メッセージを通してイエス様の威光を見、体験する者とされています。やがてイエス様は来られます。私たちは直接的にイエス様の(威光、栄光の)目撃者となるのです。その時、イエス様を完全に知る恵みに与るでしょう。