バプテスマの意義

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“バプテスマ”はクリスチャンの使用することばで、世間一般では滅多に使われません。この語を洗礼と訳したことにより、“クリスチャンになるための儀式”という、誤った認識が広まったのかもしれませんが、バプテスマは、クリスチャンとなっていくための通過儀礼ではありません。バプテスマは、まことの神様との関係において、内面(心)ですでに起こったことを目に見えるかたちで(正式に)あらわすことです。今回、バプテスマに立ち会うにあたり、改めて神様が定められた式(礼典)の意義を確認しておきたいと思います。

I. バプテスマは神様の命令
宣教の一環:イエス様を信じた者(そして教会)には神様からの使命が与えられています。この使命にはイエス様を伝え、みことばを教えていくとともに、バプテスマを授けることが含まれています。(マタイ28:19-20)
神様からの権威:バプテスマは神様の命令ですから、必然的に神様からの権威によってなされるものとなります。それゆえバプテスマを受けることは、神様に対する従順を示すことです。

II. バプテスマは救われたことの表明
イエス様を個人的に信じた者の表明:バプテスマは、イエス様を信じた人がその信仰を公に告白するために受けるものです。(使徒8:12, 36-38; 18:8; 9:18; 10:48)
罪を悔い改め、ゆるされたことの表明:イエス様を信じた人は、神様の前における罪を悔い改めた人です。バプテスマは、イエス様を信じて罪が赦されことを表明するものです。(使徒2:38; Iテサロニケ1:9)

バプテスマを受けること(水の中に沈むこと)のみでは、罪の赦しも罪のきよめもありません。罪の赦しは、人の側のイエス様に対する信仰と罪の悔い改めに基づいて神様がおこなわれるみわざです。このみわざにより、人はイエス様と霊的に一つとされるのです。

バプテスマは、(人の中で起こる)救いの事実と切り離すことができないしるしです。(Iペテロ3:21) ノアの家族は“水を通って”救われましたが、この時の水は神様のさばきの手段であって、救いの手段ではありませんでした。私たちもイエス様に逃げ込む(イエス様を信じる)ことによって救われました。私たちの代わりにイエス様が神の怒り(さばき)を受けられたゆえです。イエス様を信じた私たち(船に乗った者)は、イエス様と一つにされて救いの祝福に与ったのです。

神様に受け入れられたことの表明:イエス様を信じた人は、イエス様の十字架の身代わりの死によって、神様の前に義と認められ受け入れられています。(ローマ10:9-10, 13; Iコリント6:11)

罪が洗いきよめられるために(救われるために)、水のバプテスマを受けるのではありません。救われたこと、罪がゆるされていること、神様に受け入れられていることを、バプテスマを受けることによって示すのです。バプテスマは救いの条件ではありませんが、イエス様を信じた人はイエス様に従いたいと思うはずですから、(特別な事情がない限り)バプテスマを受けることは必然です。

III. バプテスマは信仰生活のスタート
キリスト様と一つにされる:水のバプテスマは、イエス様を信じて救われた人が、イエス様の中に“浸される、据えられる”ことを表現しています。(コロサイ2:12; ガラテヤ3:27; ローマ6:3-4 これらの箇所で使われている「バプテスマ」は救いの体験を説明するもので、水のバプテスマを意味していません) クリスチャンは、イエス様とともに死に、葬られ、復活させられた者として取り扱われているのです。バプテスマにおいて、水に入っていく時に、死と葬りを象徴し、水から上がるときに新しいいのちに生きることを象徴します。

教会に加えられる:バプテスマにおいて、イエス様に対する信仰が公に認められるとともに、正式に教会に加えられることになります。それは、同じくイエス様を信じているクリスチャンとともに神の家族となり、イエス様をかしらとする教会の部分になることを意味します。教会に加わったクリスチャンは、神様の恵みによって教会に連なることの祝福を経験し、同時に神様の助けによってその責任を遂行していくのです。(使徒2:41; Iコリント12:13, 20-27; エペソ5:23, 30)

まとめ: 信仰によりキリスト様と結びついたクリスチャンは、主と主の教会を愛し、仕える者となる
目には見えなくても、神の御子イエス様を信じた者の中では偉大な神様のみわざがはじまっているのです。罪がゆるされ、神のこどもとされ、神様のために生きることができるように変えられたクリスチャンはその変化を日々の歩みで表現していきます。救われ、イエス様を通して神様とつながる者とされたクリスチャンはイエス様に似た者へと変えられていくのです。これが聖化の過程です。
クリスチャンが集まって、キリスト様をかしらとする(地方)教会が形成されていきます。(ジグソーパズルがそうであるように)各部分(ピース)が、イエス様の権威を認めつつ、神様がお喜びになるかたちでの調和を目指していくのです。一人一人のクリスチャンが、聖書のことばによって整えられ、あるべき姿で、あるべき位置に身を置く時、神様が望まれる麗しい教会が形作られていくのです。
教会に連なる兄弟姉妹はイエス様の栄光のために心を合わせ、ちからを合わせるのです。お互いの霊的肉体的状態に関心を持ち、必要に応じて、愛をもって支え合い、励まし合い、祈り合い、助け合うのです。それは、教会のかしらであられるイエス様を皆が見上げるゆえに実現するところの、共に喜び、共に重荷を負い合う美しい教会の姿なのです。

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