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自分もしているのに、他人を咎める態度を示す。これは偽善者の姿です。これがクリスチャンに見られるとすればとても残念なことであり、神様を悲しませることです。パウロは、表面的に道徳的な人々が、神様のさばきによって断罪されることを示した後、17節以降で、神様の契約の民であるユダヤ人に向けて議論を展開していきます。
ユダヤ人であることの遺産、持っている知識、そして守っている儀式が、神様の正しいさばきを免れる手段にはならないと。それらは、神様に従うことがなければ価値はないと。
① 偽善者の罪深さ(21節前半)
パウロは、正しいことについて、「どうして」自分が実行もしていないことを教えるのかと問いかけます。ユダヤ人たちが主張する特権・(良い意味での)相違・賜物は従順(行動)なくしては無意味です。彼らが誇りとするものが、生活には良い影響を与えていないのです。自身の人種・宗教・知識を誇るのみで、道徳的変化をもたらしていないのです。他人を教えつつ、自身はその教訓に目を留めないことが、彼らの罪深さです。
② 偽善者の姿(17~20節, 21節後半~22節)
ユダヤ人としての立場があり、知識があり、誇りがありながら、盗んだり、姦淫したり、神殿のものをかすめ取っている、とパウロは非難しています。ユダヤ人は、選ばれた人々に属し、律法に依存し、神様との特別な関係を持ち、御心を知り、大切なことをわきまえています。そうである彼らはそれに相応しく歩むべきです。しかしユダヤ人が持っている偉大な遺産がプライドと自己満足の源になっており、称賛ではなくさばきの対象になっているのです。彼らは、神様は決してユダヤ人を地獄に送るようなことはないと考え、律法に安住しているのです。(ミカ3:11)実際のところ、律法は安息を与えるためのものではなく、良心を罪の意識に目覚めさせるためのものであるにもかかわらずです。彼らは、唯一のまことの神様がイスラエルの民と比類なき契約関係を結んでおられることを誇ってもいます。(誇り自体が悪ではないが…エレミヤ9:23~24)また彼らは聖書(律法)を持ち、なすべきことを知っています。彼らは律法により道徳的な価値をどのように評価すべきかを教えられています。
これらの祝福から来る特権をパウロは列挙します。彼らには特異な神様の御心に関する詳細な知識が与えられています。それは律法に示されているものであり、ユダヤ人はそれらを教える責任を負っています。しかし、彼らは自身の重要さを誇示することしかしていないのです。(ユダヤ人も異邦人も)すべての人は知識と真理を知ることが出来る者として弁解の余地はありませんが、ユダヤ人は律法の中で、より明確により詳細に受け取っているのです。彼らは、律法を持っているため、自らが霊的に優れた教師であるという自信をもっていました。自分たちは、目の見えない異教徒の導き手、光、神の道における知恵であり、幼子を教えることが出来ると。しかし彼らはただ知識を誇るのみであるため、神様の前においては弁解の余地はないと言われているのです。21~22節で繰り返される質問は、彼らが知り教えてきたことと、実際の歩みの相違を際立たせています。(詩篇50:16~20; マタイ23:3~4)
③ 偽善者の霊的問題(23~24節)
パウロは、偽善的生き方が、神様との間でどのような問題であるかを指摘しています。それは、神様への侮辱であり冒涜です。律法を誇りとしながらも、その教えに背を向けることにより神様の名誉を汚しています。ユダヤ人たちの横柄な発言と不道徳な歩みゆえに、異邦人は神様の御名を汚すようになるのです。ユダヤ人たちこそが神様を軽んじているのです。クリスチャンの歩みは(この世に対して)キリスト様を代表し、聖書の教えを説明していることを忘れてはなりません。
まとめ: 信仰に生きてこそ信仰者
律法を与えられたユダヤ人も、神様の前に悔い改めて信じ従う必要があります。ユダヤ人にとっての選びのサインである律法や儀式は(信仰がないのであれば)無意味なのです。
あなたにとって、盗み、姦淫、偶像は問題ではないかもしれません。しかし偽善的な生き方についてはどうでしょうか。ことばにしても、しなくても、表現しているものと、中身(実際)が食い違っているということはないでしょうか。
私たちはユダヤ人としての特権を持っていませんが、表面的なことに執着し、それを重要に思いやすいものです。(生まれた家庭、学んだ学校、育った教会、教えを受けた先生、信仰者としての年数、教会での立場などの)表面的なことをもって教師のようにふるまってはなりません。皆、神様の恵みによって救われたのです。そしてなお神様の恵みによって成長を必要としている不十分な者たちなのです。先ず自分を教えましょう。そして、そうしないことによって神様を侮るというようなことがないようにしましょう。