人はしばしば自身のことは棚に上げ、他人を断罪するものです。(被告人席にではなく、裁判官の席に立つことを好むのです)パウロは、2章において“宗教的道徳主義者”へのメッセージを送ります。主たる相手はユダヤ人です。この中で神様のさばきを規定するいくつかの原則を挙げていきます。
*他人をさばく者は、人をさばくに値しない(1節)
ユダヤ人は、(自分たちは)異邦人よりも教養があり洗練されていると考えて見下げさばく傾向にあります。パウロの非難は、ユダヤ人と(一部の)道徳的な異邦人に向けられています。ユダヤ人たちは1章で説明されているような不道徳に身を任せていないから神様のさばきの対象ではないと考えているのです。しかしそれは悲劇的な間違いを犯しています。彼らは不道徳な異教徒よりも知識を持っているのですから(3:2; 9:4)、より高いレベルの責任を負っているのです。彼らは、(実際のところ)他人をさばく基準に則って、自身に有罪を宣告しているのです。他人をさばく十分な知識があるなら、自分をさばくことになるのです。彼らには自分の状態を評価する知識があることを示しているからです。彼らは、異教徒の俗悪な行動を非難しつつ、自らの罪については言い訳をし、見過ごしているのです。堕落した罪人は(自分ではなく)他人の中にある欠点を見出すことに長けています。人の場合には断罪するが、同じことを自身がしても無頓着というのが、罪人の“不思議な”ところです。彼らは、自己義認へと導く致命的な二つのあやまりを犯しています。①表面的なことを強調するあまり、神様の道徳的基準を過小評価すること(マタイ15:1-3)、そして ②自身の罪深さを過小評価することです。人をさばく者(自分を義とする者)が覚えておくべきことがあります。①人はどのような罪も犯しうること、②律法の一つを犯すなら、すべてを犯したことになること(ヤコブ2:10)、そして③罪には心の中の(行動を伴わない)ことも含まれることです。
*他人をさばく者は、神のさばきに値する(2節)
神様のさばきは、(人をさばきながら)同じことを行う者たちの上にあります。パウロは、この章の残りの部分で、他人をさばく者が学ぶべきことを教えていきます。神様のさばきは正しいものです。神様がされることは本質的にすべて正しいからです。(3:4; 9:14; 詩篇9:8)
*神を侮辱してはいけない(3節)
人をさばきながら、自分も同じことを行う者は、神様のさばきを逃れることができません。そのように考え、計算し、予想し、期待しているとすれば大きな間違いを犯していることになります。人は、他人をさばくことで、自身が赦されるわけではありません。むしろそうすることによって、自身への責めが増すのです。人は“裁判官の席に着く”と自身の罪深さがわからなくなるものです。
1~3節の理屈は以下のようなものです。神様はこれらのことを行う者をさばかれます。自己義認し、他人をさばく者は同じことを行っています。それゆえ自己義認する者も神様のさばきの前に立たされているのです。
*神の善を軽視してはいけない(4節)
神様のさばきは延期されることがあります。これは神様の善ゆえです。神様のいつくしみとは、罪を憎まれる神様の、罪人に対する思いやりです。神様の恩寵は、クリスチャンであるなしに関わらず示されています。(マタイ5:45)神様の忍耐とは、人の邪悪と反逆に対する処罰を見合わせておられる神様のお姿です。神様は(痛い目にあっても致し方ない中で)人を肉体的に一時的に助けられることがあります。これによって、救おうとされているお心を示され、ご自分のもとに来て、霊的・永遠的救いを受け取ることを願われているのです。神様の寛容とは、神様を怒らせ続ける人に対する驚くべき自制です。イライラさせられる場面での(すぐに罰しない)感情的穏やかさです。寛容は、神様が(前の二つの)いつくしみと忍耐を示されるところの持続・継続期間を示しています。これら三つは神様の一般恩寵を説明しています。(詩篇119:68; 145:9)この神様の善を、見下し、軽く考えていること、またこれを過小評価し、軽蔑をもって扱うことさえしていることについて指摘がなされています。これは神様の善を曲解することです。神様がいつくしみと忍耐と寛容に富んでおられるのは、人の罪の言い訳のためではなく、悔い改めのためです。悔い改めこそが、神様が罪人に対して望んでおられることです。(IIペテロ3:9)悔い改めとは、罪に背を向け、神様に向かって歩き出すことです。心が変えられ、その変化は行動の変化となってあらわれます。人は、神様からの赦しと救いのために、罪からイエス様へと向き直る行動が求められているのです。
まとめ:神のさばきに異議を唱えることはできない
神様のさばきは完全です。あなたは、(積極的に)他人をさばく人ではないかもしれません。しかしみことばが語られる時、自分のことを棚上げにしてはいないでしょうか。まず、みことばは自分に語られていると認識しましょう。神様のいつくしみを誤解してはなりません。神様の忍耐・寛容・いつくしみを試すような生き方、つまり罪を悔い改めようとしない生き方は速やかに変えられるべきです。完全に正しい神様の前にあって、まず自分を正しくさばきましょう。