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神様のご性質には不変性・一貫性があります。神様の人に対する恵みと憐みは変わりません。しかしそれが永遠であるわけではありません。また神様は人の祝福を願い、語りかけ警告されるお方ですが、これも“いつまでも”されることではありません。神様はある時、ある人、ある状況においては放任という取り扱いをされるということも事実です。
神様はご自分を人にお示しになりますが、それでもまことの神様を認めないと、人の心は眩まされ、偶像礼拝に走っていってしまうことについて前回学びました。(18~23節)このような人への神様のさばきの一つは放任というかたちであらわれます。神様のこのさばきにより、罪深い人間は神様が意図されたことを違うものに変更してしまうようになるのです。パウロは、24~32節において、怒りを示される神様に見放された人が陥る悪化の連鎖を説明しています。
*神の怒りの放任:汚れに引き渡す(24~25節)
人は、神様に見放されたことにより、自身のからだを正しく維持するのでなく辱め、神様の真理を偽りと取り替え、造り主ではなく造られたものを拝むようになるとパウロはこの箇所で述べています。
人が神様を継続的に捨てるなら、神様はその人をお捨てになります。(士師記10:13; II歴代15:2; 24:20; 詩篇81:11-12; 使徒7:40-42)
神様の放任の方法には、間接的かつ即座に行われるものがあります。これは、歯止めをなくすことにより、人の罪が必然の道を進むのをそのままにするというものです。また別の方法として、直接的究極的に行われるものがあり、これは特定のさばきや罰をとおしてです。
パウロはこの箇所で神様が人を性的不道徳へと引き渡されることについて述べています。この罪は心で始まり、体を辱めることに発展していくものです。これはゆるされない欲望の追及であり、自身のからだを辱めるものです。
また神様による放任により、(偽りを信じ)神様の存在とその権威を否定するようになります。人が従い栄光を帰す対象であるまことの神様ではなく、この神様によって造られた被造物を(意図的に)拝み仕えるようになるのです。
*神の怒りの放任:恥ずべき情欲に引き渡す(26~27節)
人が神様に見放されることによって選択することとして、女性として、男性としてのあり方を変更することをあげています。つまり同性愛の罪を犯すということです。
26節での「情欲」は、非常に強く熱烈な願望で、これが内側から自然に湧き上がり、自制心や理性によって抑えられていない状態を作ります。この欲望は恥ずかしく道徳的に非難される性質を持っています。これは聖書で厳しく非難されている罪です。(ユダ7 )
神様の放任の怒りのもとでの道徳腐敗の程度を示すために、パウロはまず女性について語ります。ほとんどの文化において女性が道徳的腐敗の影響を受けるのは後だからです。
女性の同性愛について述べた後、パウロは男性の側について語ります。27節での「情欲」は、情熱的な欲望で、常に何かの対象に向かって手を伸ばし、その対象を自分自身のものとして引き寄せ、取り込もうとする行為を意味します。これは男性同士の道徳的に極めて不快な行為を説明しています。この罪は自己破滅的な性質をもっています。それは恥ずべき行為(生き方)であり、それがすぐさま深刻な結果をもたらすということにはならないかもしれませんが、神様の前にあって非常に危険な立ち位置にあるということです。(私たちには明確に誰が放任されているかはわからないわけですから)愛をもってこれらの人々に真実を語らなければなりません。
まとめ: 義なる神を侮ってはならない
まことの神様がご自分を示しておられる間に、語りかけておられる間に従いましょう。罪深さは悪いほうに発展していくものです。罪に慣れ、麻痺し、神様を恐れなくなり、神様は必要ないとさえ思うようになるのです。神様によるブレーキ(抑止)はいつまでも機能するわけではありません。また神様の放任を“自由”と勘違いしてはなりません。結婚に関する神様のお考えは変わることはありません。性別の種類と数、結婚のあり方は創造以来変わっていないのです。現代における性・性別に関する障害・病いの存在(それに伴う悩み・苦しみ)は存在しますが、それをもって神様のお定めになったことを否定することは間違いです。人々の考えに変化が起こり、社会が寛容になるとしても、神様の真実は変わりません。善悪は、人の(その時代の)多数決ではなく、神様の基準で常に決定づけられるものなのです。