礼拝において”もう今日は、メッセージがなくてもいいのではないか”と思うぐらい、霊的にお腹がいっぱいになるような証しを聞くことがある。兄弟姉妹が神様から教えられ、成長しているのがわかる証しに目頭があつくなることもある。(年齢とともに涙もろくなっているのを感じる)今日の姉妹の証しには、みことばを毎週取り次ぐ働きへの感謝と尊重、そして牧会者への(健康に関することを含めた)思慮と祈りの心が表現されていた。聞きながら涙(と鼻水)の決壊を止めることはできなかった。(なんたる不意打ち)証しの中で(自分の名前が繰り返され)顧みられている、祈られていることのありがたみを主にあって深く味わった。もちろん、何も言わなくても祈られていると思うし、覚えられていると思う。しかし、それをわかりやすく知らせてもらえることは恵み。あらためて自分に任されている務めの重みを感じた。みことばの取り次ぎ手として成長し続けなければならない。自分のことばではなく、神のことばが心に残り、聖霊の働きによって変えられていくことを励ます者でなければならないと。同時に、感謝を表現することの大切さも教えられる証しだった。その存在がなくなって初めてわかる、ということではなく、日頃から、妻へ、子どもたちへ、教会の兄弟姉妹へ、その存在の重要さを覚えつつ感謝を伝えるべきだなと。日本人は、とかく”言わなくてもわかる”とか思っている部分があると思う。でもあることは言わなければ伝わらない。わかっていると思っていることをあえて言葉にしてみることで大きな励ましともなる。家族も、教会の神の家族も、神様の恵みを覚えつつ感謝を伝え合う輪であるならば素晴らしい。充分以上の感謝の理由をくださったイエス様を個人的に知り、救い主と信じた自分は感謝を表現する信仰者だろうかと省みさせられている。
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