日本におけるコロナは落ち着いている今、過度に感染の危険を意識することなく、教会における礼拝を持つことができることを感謝します。今日は、体調不良にて欠席された方々(子供を含む)がありましたが、久しぶりに来会してくださった先生ご夫妻も交えて主に賛美をおささげするひとときを持つことができました。
さて前回の続きになります。(前回の記事は8月29日のものをご覧ください。)
我が家の子供たちは今、自宅と教会が共存する中にいます。それがどのような状況であるのかを可能な限り説明しましょう。私たち夫婦は、「教会に住まわせていただいている」という感謝の心を持っていますが、同じ思いを子供たちに求めることは必ずしもできません。なぜなら、私達夫婦はこの働きに召されていますから、教会に住むことで遭遇することへの対応を信仰でできますが、子供たちには「同じ召し」があるわけでも信仰があるわけでもないからです。また子供たちが私たち親とその思いを共有できるとしてもそうなるには少し時間を要します。
普通の家庭では、家族以外の人が毎週のように自宅にやってくるということはないと思います。しかし、教会に住むと、子供の感覚としては、「我が家のキッチン」が定期的に教会のキッチンになり、「我が家のリビング」がしばしば教会の交わりの場になります。また「自分の部屋」が日曜学校やナースリーの部屋となるということもあるでしょう。大人はこれらのことを「大したことない」と思っても、子供が同じように考えるとは限りません。(コロナ禍の現在、集会の頻度も減少し、日曜日の会食もないため、ここに記したことが必ずしも私たちの教会の現状を反映しているわけではありませんが。)
教会に住んでいると、「教会であるから」かかってくる電話、訪問してくる人がいます。それらに対応することによって、子供との時間を犠牲にしなければならないこともあります。子供に「大人の事情」を理解させるには無理があります。
子供たちが年齢を重ねてくると、「教会の戦力」となっていきます。それは喜ばしいことではありますが、様々なことを負わせすぎてしまうこともあります。確かに子供に奉仕を頼むことは親にとって「手っ取り早い」ので安易にしてしまいがちですが、そのことによって彼らを疲れさせてしまう可能性もあります。
ある意味においては、牧師の子供たちは、「牧会の現場」を良く知っている、或いは知らざるをえない者たちかもしれません。それが必ずしも彼らにとって益になることではないと思います。
これらのことを考えると、彼らがどのようなことで悲しく思い、傷つき、教会のこと、教会に集う兄姉妹のこと、そして自分が牧師家庭に身をおいていること自体を否定的に思ったりするかわかりません。そしてそのことがイエス様に対する個人的な信仰を持つことを妨げたり、信仰成長の障害となるやもしれないのです。
牧師家庭に生まれることは恵みです。教会に住むことが出来ることも恵みです。奉仕の場が身近にあることも恵みです。しかし恵みは「押しつけ」で認識できるものではないと思います。子供たちが信仰を持ち、イエス様にある幸いな立場を認識して、ようやく救いの恵みとそれに伴う様々な祝福を実感し始めることができるようになると思うのです。親である私たちは最大限の努力をもって彼らの思いを汲み取り、本音を受け止め、可能な限り諭していこう、ケアしていこう、またそうすべきだとは思いますが、それが十分にできるわけではありません。それだからこそ、教会の兄姉には祈っていただきたいと思うのです。
前回、悪魔は教会を潰したいと思っているということを書きました。教会を潰せるなら、牧師家庭を潰せるなら、方法は何だっていいと思うでしょう。牧師家庭の子供たちが、「牧師家庭に生まれたがゆえに」霊的に脱線してしまうとしたらそんな悲しいことはありません。そしてそのような事態になると、牧師としての働き、教会の歩みにも大きな影響を与えることは必至です。それらのことを念頭に、私たち家族のことを祈りに覚えていただけるなら、主にあってこれほど心強いことはありません。
- ホーム
- ブログ
- ニュースレター:恵みの回顧
- 牧師の独り言 vol.3