牧師の独り言 Vol.32

最近読んだ本の内容をきっかけとして、「神様の恵み」について、湯船につかりながら、またウォーキングをしながら黙想してみた。「恵み」は神様からのものだが、自分にとって「良いこと、良いと思われること」、「都合のよいこと」を意味すると無意識に考えている自分がいることに気付かされるとともに、そういった自分の定義がいかに狭く浅いものであったかを考えさせられた。何かを手にすること、想定していなかった良い結果、通常ではない経験。それらは確かに恵みだ。(そう、明日から渡米する。21年ぶりのアメリカ本土上陸。それは恵みだ。間違いない!)でも自分にとってプラス的なことでなければ、恵みではないのか。留学時、コリント人への手紙第二12:9は、自分にとって大きな支え、励ましとなったみことばの一つ。でも考えてみれば、使徒パウロは、肉体のとげが取り去られることを心から願っていた。ある意味、とげがなくなることが、恵みだと考えていたということ。でも神様はパウロの願いをお聞きにはならなかった。神様のご計画では、彼がとげを持ち続けることが神様からの恵みによる経験であり、それによってご自分の栄光があらわされるというものだった。彼は神様から語られた時に、自分のもっていた「神様の恵み」の定義を、神様がもっておられるものに修正した。そして自身の経験を快く受け入れ喜ぶことさえした。そうであるなら、躊躇なくこう考え理解することができる。神様のご計画においては、計画通りにいかないこと、病気が治らないこと、損をすること、不快な思いをし、恥ずかしい場面に立たせられることも、神様からの恵みとして与えられる可能性があるということ。少なくとも神様はそのような良い意図をもって様々な経験を与えられる(こともある)。問題は私の受け取り方だ。投げやりではなく、あきらめでもなく、自分に言い聞かせるということでもなく、(そして単なるプラス思考ではなく)見えるところネガティブなことを、主にあって良いこと、良いもの、神様の恵みとすんなり受け止められるだろうか。今の自分はそこに到達してないと思う。”自分はそのような負の経験を受けるには値しない、もっと自分は良いものを受けるに値している”と心のどこかで考えていると思う。(神様の恵みの理解からは相当遠いところにいることは明らかだ)これにも信仰が必要となる。でもそこに到達するなら、とてつもなく多くの事柄が、神様の恵みとして日々認識でき、主にある平安と喜びと希望、そして感謝が溢れるのだろう。神様が注いでくださっている充分な(そして充分以上の)恵みを余すところなく味わう者、知る者、認知する者となりたい。神様の恵みに生きる者となりたい。そしてそうならなければ、効果的に神様の恵みを語る者にはなれない、と思わされている。

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