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聖書に興味がある方や、イエス様を信じたばかりの方には、福音書の一つであるヨハネの福音書から読むことをお勧めすることがあるかもしれません。しかし、ヨハネの福音書が「読みやすいか」と言えば必ずしもそうではありません。最初から比喩表現が登場しますから、それに躓いてしまう場合もあるでしょう。使徒ヨハネはこの書の目的を明確にしています。それは読者がイエス様を信じることです。(20:31)では、信じたらこの書の役目は終わりなのかと言えばそうではありません。信じることは継続していくことだからです。私たちはイエス様を信じました。そして信じ続けているのです。今回はヨハネの福音書の冒頭に登場するイエス様のお名前である「ことば」に注目します。
I. 「ことば」の存在する時
この書は創世記の最初の言葉と同じ言葉で始まります。これは少なくとも、神の創造の前の段階を指していますが、「ことば」の存在の始まりを示しているわけではありません。「ことば」が時を超越して継続的に存在していることを表現しています。3節の、存在を始めた時がある「造られた」ものとは別次元の存在です。「ことば」には存在していなかった時がないのです。時間の中にいる私たちにとっては理解が困難ですが、「ことば」であられるお方は、“時間の前から”永遠に存在しておられるのです。(ユダ25; IIテモテ1:9)
II. 「ことば」の神性の本質
“イエス様は神である”、これ以上わかりやすい表現があるでしょうか。「ことば」がイエス様を指していることを理解すれば、1節の最後の一文は最も単純明快な教えです。このお方が人となられ(肉体を取られ)たのです。(14節)イエス様は、(数ある中の)一つの神であるというのでもなく、“神のような”方というのでもありません。
使徒ヨハネがイエス様を紹介する上で「ことば」を使ったのは、読者の効果的な理解を意識したからかもしれません。旧約聖書では、神の「ことば」は神様の御心を行う者として擬人化されています。(詩篇33:6; 107:20; 147:15-18)ユダヤ人読者は、イエス様が旧約聖書の神の御心を擬人化した「ことば」であることを理解したでしょう。また、ギリシャ哲学では、ロゴス(ことば)はすべてを超越している神と被造物との架け橋と理解されています。それゆえ、ギリシャ人読者は、「ことば」を神と被造物との架け橋として理解したでしょう。
しかし使徒ヨハネは彼らの理解以上の意味合いを持って、「ことば」であられるお方が、個人的に完全な神であり、完全に人間である方として、またこの世界に来られた、完全な神の啓示として紹介しているのです。被造物に、父なる神様を示す御子イエス様は、神の知恵とちからを示す究極のお方です。(ヘブル1:1-2; 黙示録19:13, 15; ヨハネ8:31; 15:7)
III. 「ことば」の神との関係
「ことば」であられる御子イエス様は、父なる神様と永遠にわたる愛の関係にあります。御子イエス様と父なる神様とは同等の関係であられ、それでいて区別が存在します。三位一体の不思議さがここにはあります。2節は1節の単なる繰り返しではなく、御子のご人格や神性に始まりがあったわけではないことを説明しています。イエス様の存在がベツレヘムで始まったのではなく、また十字架の死からの復活の後に何らかの方法で神になったのでもないということです。
IV. 「ことば」の世界との関係
3節は創世記1章の教えの要約です。「ことば」であられるイエス様が創造主であられることを、肯定的に、また否定的に説明されています。すべてのものはイエス様のみわざにより存在するに至ったのです。造られたものの中に、イエス様が含まれないことは明らかです。
(コロサイ1:16; ヘブル1:2; 黙示録3:14)
私たちは、創造主を前にして自身の原点(出所)を明確にしていただいています。自身の存在を可能とされたお方に対してへりくだり、畏敬の念を抱くでしょうか。聖であられ義であられ良いお方が、祝福の意図をもって創造された事実をどう受け止めるでしょうか。私たちは与えられたゆえにいのちを持っています。そして「ことば」であられるお方の光に照らされ、現実を知り、解決を与えられ、(以前は不可能であったことですが)神様の光を放つ(反射する)者へと変えられました。イエス様を信じた者は、イエス様のために活動します。そしてイエス様が意図されたように生きることによって、(神の創造物として)本当の意味で輝くことができるのです。イエス様はクリスチャンにとって、ことばであられ、いのちであられ、光であられるのです。
まとめ: ことばであられるイエス様は私たちが信じ続けるに相応しい唯一のお方
神の御子であられるお方が、肉体を取っておいでになったこと、霊の存在であられるお方が見える存在となられたことは、不思議なことであると同時に大きな祝福です。神様のことばを聞くことができるだけでなく、読むことができるだけでなく、見ることができるようになったのですから。神様のお定めになった時に、イエス様は人となられ、教えとみわざ、そして模範を通して神を示されました。(今私たちは、肉体を取られたイエス様と同時代に生き、イエス様を体験した人々の証しを読むことができます)それはすべて「ことば」であられるお方によってもたらされた私たちへのメッセージです。使徒ヨハネは、「ことば」という表現の中に、イエス様が神の御子であられることの真理を込めたのです。イエス様は、私たちにとって神の生けることばであり、神様の私たちに対する御思いのあらわれです。それゆえ、私たちはこのお方を信じ続けるのです。