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世間での教会のイメージは、“真面目できよい人が集まる所”というようなものかもしれません。しかし、しばらく教会に通うなら、必ずしもそうではないことがわかります。クリスチャンは救われていますが、なお罪人であり、罪を犯す存在です。そのような人が集まっているのですから、教会でも問題が起きるのです。しかし、クリスチャンは聖徒という立場をいただいている者たちとして、神様がお求めになっている聖さを追求していく集団です。今回は聖化が意味するところの一つである、道徳的悪からのきよめについて学びます。
IIコリント6:17: 私たちクリスチャンは、(聖霊なる神様を内に宿している)聖霊の宮ですから、聖さを保つ責任を負っています。異教的・商業的・人間関係等のあらゆるかたちの悪からは一線を画さなければなりません。それは、様々なかたちでの罪深い影響に抵抗し続ける必要があるということです。
IIテモテ2:21: 私たちは、俗悪なことや正しくないことから離れなければなりません。間違ったことを教え、罪の中に生きている人と関わってはいけないのです。それは、尊いお方である神様に使っていただくためです。
ローマ6:11-12: 私たちは、イエス様と結び合わされた者たちですから、人生における欲望や目的が変えられたはずです。ですから、自分の罪に関する弱点を突き止め、誘惑されやすいものを知り、誘惑の原因となるものから距離を置き、自制を働かせ、意識して、良い習慣や奉仕のために時間を使い、何よりも神様の力と恵みに頼ることが必要です。私たちは、どのような罪とも関係を断ち切り、聖さに、礼拝に、祈りに、奉仕に、そして実を結ぶことに召されていることを自覚すべきです。
エペソ4:22-32:この箇所では、聖化の消極面として「古い人」を脱ぎ捨てることが教えられています。あらゆる真実ではない発言、誤ったかたちでの怒りの取り扱い、様々なかたちでの盗み、不適切で無礼なことば、思いやりのなさ、うらみ、悪意、そして赦さない心などは、私たちの中から脱ぎ捨てられなければなりません。
コロサイ3:5-9:性的な事柄は聖さを脅かす大きな勢力です。この箇所では、性的不道徳、不純な思いや行為、わいせつなことば、抑制のない誤った強い欲情について指摘されています。聖徒の立場と実生活における状態が一致するようにと教えられているクリスチャンは、この点において神様の助けにより断固とした姿勢で臨まなければなりません。
私たちは神様の子どもなのですから(IIコリント6:18)不道徳な行為(肉の汚れ)と神様が喜ばれない動機・考え等(霊の汚れ)から離れて聖さを追求するべきです。(IIコリント7:1)それこそが、神様が私たちを救われた(召された)目的です。(Iテサロニケ4:3-7)
*以上の聖句は、聖化が(単純に神様のみわざなのではなく)人間の側の行為でもあることを示しています。イエス様を信じた人が、神様に効果的に用いられるためには、各自が自分を神様に対して聖別するべきなのです。
まとめ:聖徒は聖い香りを放つ者
私たちが聖さを追求する動機は、神様への愛です。私たちを愛しておられる神様への愛の表現として、聖さを選択するのです。罪の性質を持つ者たちとして、罪との戦いは継続しますが、神様の前に罪を赦され、聖徒の立場をいただいたクリスチャンは、(クリスチャンではなかった時とは違って)汚れに敏感になり、それを感知し、嫌悪し、除去し、離れることができます。クリスチャンが、神様の恵みと助けによって、聖さを求める度合いに応じて、それは実現していきます。聖い神様を知ることができた私たちは、今の罪に汚れた世の中にあって、道徳的にも倫理的にも良い意味において際立つ存在であるべきなのです。