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「罪」に関連する言葉が、(訳によって相違がありますが)聖書には840回以上登場します。この世界に罪が侵入した結果、人は苦労・悩み・悲しみ・痛み・不安・恐れと共存しなければならなくなりました。自分、他人、そして世界全体が罪の重荷を抱えて生きています。この罪の結果を集約すると「死」ということになります。今回は、「刑罰」としての死に焦点を当てます。
聖書が語る刑罰とは、決まり(法)を犯すことによって蔑ろにされた神の義を擁護するため、(決まりを定められた)神が直接に負わせる苦しみ、または損失のことです。
懲らしめは神様の愛から出るものですが(ヘブル12:6)、刑罰は神様の義から出るものです。(黙示録15:1,4)神様の聖なる完全なご性質は、正しいさばきをお求めになります。(黙示録16:5; 19:2)
I. 肉体的死:霊魂と肉体の分離
神様に従わなかったアダムは、死の現実を背負うことになりました。(創世記2:17; 3:19)善の知識をすでに持っていた彼は、邪悪(神への不従順)の知識を持つことになりました。
死の現実を、モーセも祈りの中で表現しています。(詩篇90:7-11)イエス様も、人が罪の中で死ぬことについて語っておられます。(ヨハネ8:24)致命的で、赦されない、永遠の罪とは、イエス様を信じないことです。しかし、その信じない罪を悔い改める(そして信じる)なら他のすべての罪は赦されるのです。
アダムは死ぬようには造られませんでしたが、罪ゆえに、死が人の定めとなりました。(ローマ5:12,17; ヘブル9:27)アダムの不従順により、死は世界を支配することとなったのです。
イエス様を信じたクリスチャンも、肉体的死を経験しますが、クリスチャンにとって、死は単なる罰ではありません。死は肉体に関しては「眠り」であり、霊魂に関しては、神様との完全な交わりに入る入り口です。(IIコリント5:8; ピリピ1:23)やがてクリスチャンは、神様(イエス様)との完全な、親密な、障害のない交わりに入れられるのです。
II. 霊的死:霊魂の 神との分離
エデンの園で宣告され、全人類に降りかかっている罪の刑罰は、第一義的には霊魂の死です。(創世記2:17)肉体的死は時間的には必ずしもすぐには起こりませんが、霊的死はその瞬間からです。(ローマ5:21)人は神様との関係において死んでいるのです。(エペソ2:1,5)それは、罪深い(行いではなく)性質ゆえに死んでいるのです。神様に対していのちのない者であるということであり、神様と分離しているため(知るべき)真実を知らないでいるということです。(エペソ4:18)
これにより人は、神様の臨在(存在)、神様の祝福、神様の知識、神様を求める心を失いました。それゆえ、人間は死から生き返らせられる必要があるのです。(ヨハネ5:24; 8:51)
III. 永遠的死:永遠にわたる霊魂の 神との分離
肉体的死は一度だけですが、霊的死は永遠に続くものです。そこには永遠にわたる自責の念と外面的な刑罰が伴います。これは第二の死とも呼ばれるもので、神様との永遠の分離のみならず、永遠の苦しみです。黙示録20:11-15には、歴史上のすべての、イエス様を信じていない人の最後のさばきについて書かれてあります。この時、永遠のさばきに値することの証拠として書物が開かれ、一人一人の(それまでの)思い・行動・言葉が、神様の完全で聖い基準によってさばかれるのです。
そして、悪魔やその手下のために用意された、ゲヘナと呼ばれる火に入れられます。(マタイ10:28; 25:41)それは終わることのない刑罰です。
(IIテサロニケ1:9; 黙示録14:11)
まとめ:永遠の刑罰ではなく、永遠の祝福が約束されている!
肉体の死、霊的死、そして永遠の死は、いずれも私たち罪人にとっては避けることができない定めとして私たちの前に立ちはだかっていました。しかし、神の御子イエス様は、ご自分の救いのみわざ(十字架における身代わりの死と復活)により、この絶望を希望に変えてくださいました。
(ローマ4:25)
このことにより、イエス様を信じる人は、神様の前において罪がゆるされ、(本当の意味で)生きることができるのです。死という城壁は取り壊され、(なお経験しなければならない)肉体の死も、永遠の祝福(いのち)に入る通過点となりました。(Iテサロニケ4:14)クリスチャンは死を肯定的にとらえることができます。平安をもって死と向き合うことができるのです。それは(イエス様によって用意された)確かな準備に基づく確かな希望をいただいているからです。