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「十字架を負う」ことはイエス様からの命令として与えられていますが(マタイ16:24)、このテーマを「ペテロの三度の否認」の記事から学びたいと思います。(ヨハネの福音書18章15~18、25~27節)
ペテロによる「裏切り行為」は、イエス様にとって最も親しい者の一人からの仕打ちであるということが大きなポイントです。そこに、イエス様の苦しみと死の特殊性があります。
大祭司の家へと連れていかれるイエス様(の一行)に、ペテロともう一人の弟子がついていきます。もう一人の弟子はヨハネであると思われます。どういうわけか大祭司とのつながりがあったヨハネは、門番の女性に話をしてペテロを庭に招き入れます。その女性の(イエス様との関係を問う)問いにペテロはNOと言いました。ゲッセマネの園で剣を抜いて勇敢だったペテロではありましたが、この場面では見る影もありません。
ペテロの記事の前後でイエス様は裁判を受けておられたと思いますが、イエス様は何一つ隠すことはされませんでした。一方ペテロはイエス様との関係について(イエス様が予告された通り)すべてを否定したのです。
I. 十字架を負うことはリスクを覚悟することが含まれている
ペテロはイエス様との関係を告白することができませんでした。そこまでは(それほどまでには)イエス様に従うことができなかったのです。それは彼にとって“十字架を負うこと”ができなかったことを意味します。十字架を負うとは、損失や犠牲、そして恥、痛み、苦しみ、そして時には死を覚悟することになります。罪が赦されて、天の国へ行くことが約束されていることは幸いですが、この地上で生きている限り、イエス様に従うがゆえに様々な好まない経験があることは現実です。(ピリピ1:29; マタイ10:22; IIテモテ3:12)
ペテロがイエス様に従うことができなかったのは、周囲の人々、そして自分の行く末を恐れたからです。しばらく前の彼の(イエス様に従うことの)情熱は何のあてにもなりませんでした。(ヨハネ13:37; マルコ14:29, 31)彼はリスクを覚悟することができず、それを避けようとしたのです。
彼がイエス様に従うことができなかったことは、真実に背を向けたことを意味します。彼は真実を隠し、(今まで聞き、受け入れた)みことばを行動で否定したのです。また自分の発言を実行できませんでした。大事な場面で自分の気持ちや考えを優先してしまったのです。
II. 十字架を負うチャンスは与えられている
ペテロは最初にイエス様との関係を否定してから、もう二回、イエス様との関係について告白するチャンスがありました。結局、彼は三度イエス様との関係を否定してしまいましたが、ペテロにはなおイエス様に従うチャンスが与えられました。イエス様は忍耐強く、あわれみをもって近づいてくださり、従順の祝福を受けとるようにと招いてくださるお方です。私たちは決して神様のあわれみを軽視してはいけませんが、今までの不従順を省み悔やみ続けるのではなく、イエス様にあって今後どのようにするかという選択が大事です。
III. 十字架を負うことは神様の恵みと助けによる
十字架を負うこと、イエス様に従い続けることは、自分のちからでできることではありません。ペテロがそうすべきであったように、私たちは自分が何者であるかを認識して謙虚になるべきです。“私は自分ではあなたに従うことができない臆病な者です。どうかちからを、勇気を与えてください”と神様に呼び求める必要があります。情熱や気合い、そして根性や気持ちだけでは神様に従うことは不可能です。私たちは、自分の弱さと罪深さを認識することが大切です。私たちはみことばの真理を知るだけでなく(知っているだけでなく)、その真理に生きることが重要です。聖書の教理を知っている以上に、教理を実践することに価値があるのです。
まとめ: 十字架を負う歩みとは、イエス様への従順を明確にする歩みである
十字架を負うとは、神様に従う歩みであり、“私はイエス様の仲間です”と公言する歩みです。ことばと行動に矛盾がないよう神様の助けを祈りましょう。クリスチャンは、イエス様のものでありながら、世の中に紛れ込み“暖を取る”誘惑にあいます。イエス様のお名前を掲げること、十字架を背負うことをやめてしまう誘惑です。私たちはどれほどペテロと違いがあるでしょうか。ペテロは確かに(イエス様に対する従順において)失敗しましたが、従うことをやめたわけではありません。(そこにはイスカリオテのユダとの違いがあります。)イエス様はなおペテロを従順へと招きそのチャンスをくださいました。同じことをイエス様は私たちにもしてくださいます。私たちクリスチャンは、立場においては、イエス様とともに十字架に付けられた者です。(ガラテヤ2:19-20)私たちはそのことを念頭に置きつつ、イエス様に従い続けること、イエス様がよしとされること、喜んでくださることを選んでいくことが求められているのです。それがクリスチャンの、十字架を負う歩みです。