有名な賛美歌の一つである、アメイジング・グレース(おどろくばかりの)を作詞したジョン・ニュートンも、霊的な目の不自由さがいやされた一人です。彼が書いた歌詞の中に、「私はかつて盲目であったが今は見ることができる」というフレーズが登場します。それは奴隷貿易に関わっていた罪深いかつての自分、そして今イエス様によってゆるされ変えられ救いの恵みを経験している自分の変化を表現するものです。霊的に目が不自由であることは、真実を知らない状態にあるということ共に、真実から目を背けている状態にあるという面もあります。今回も引き続き 目が癒された人とパリサイ人たち双方の応答から学びたいと思います。(ヨハネの福音書9章24~34節)
パリサイ人たちは、再び、目が癒された人を呼び出し、“神の前に真実を白状するように”と迫りました。彼らの求める真実とは、彼らにとって都合のいいものにほかなりません。イエスと呼ばれる、罪のある者と関わったことを告白し、安息日の律法を受け入れるようにと彼らは求めているのです。彼らにとってイエス様は、彼らの伝統を破り、彼らの社会における影響力を脅かした“罪人”であるのです。
目が癒された人は、イエス様について詳しいことは認識していませんでした。彼にわかることは、目が見えなかったのが見えるようになったということです。彼には、イエス様が何をし、どのようにして見えるようになったかを繰り返し尋ねるパリサイ人たちの、イエス様に対する敵意がだんだんわかってきたようです。27節の後半で皮肉的な発言をする彼に対して彼らは罵り、自分たちはモーセの弟子であると主張しました。
目が癒された人は、自分の目を開けた方が罪人であるはずがなく、神から出ておられるに違いないことを告白しました。パリサイ人たちは当然この発言を受け入れることができず、彼を(ユダヤ人の会堂、そしてユダヤ人社会から)追放しました。
パリサイ人たちの言動、そして目が癒された人の言動から二つのことを心に留めたいと思います。
I. 傲慢になるな
①自分の基準を振りかざすな(24節) パリサイ人たちは、安息日の禁止事項についての自分たちの解釈(言い伝え)を基準にして、“イエスは罪人である”と主張しました。
②自分の信念を振りかざすな(24, 26節) パリサイたちは、癒された人に対して、同じ質問を繰り返しました。それは奇蹟であるはずがないという“信念”を手放そうとしなかったからです。
③自分の立場を振りかざすな(28~29節) パリサイ人たちは、かつて神様と直に面会したモーセの弟子であると宣言し、また自分たちこそが霊的なこと、宗教的なことを教える資格があると思っていました。
II. 知ることを素直に語れ
①真実を繰り返し語れ(25, 30, 32節) 目が癒された人は、尋ねられるたびに自分が知っていること、体験したことを語りました。
②主の弟子であることを誇りとして語れ(28節) パリサイ人たちは、目が癒された人について“イエスの弟子”であると言いました。彼らは悪口のつもりで発言していますが、彼にとっては栄誉あるレッテルです。
③イエス様がどのようなお方であるかを語れ(31~33節) 目が癒された人は、自身の認識の範囲内において、神様について、イエス様について語りました。
まとめ:謙虚に真実を受け入れ告白することは、救いのみわざを体験した者として相応しい応答である
イエス様を信じる上で必要となることの一つは、神様の前に謙虚になるということです。イエス様を自分の救い主として信じる時には、自分のそれまで抱えてきた、常識や基準、信念や価値観、そして伝統や習慣など、多くのものを否定しなければなりません。また同時に、救い(永遠に続く幸せ)を手にするために自分自身にできることは何一つないことを受け入れなければなりません。自分の努力や修行、また自分の中にある善良さや正義感が、神様からの救いを受け取る条件にはなりえないことを認めなければなりません。そして絶対的で偉大で自分の理解をはるかに超えた存在であられる神様を無条件に受け入れることが必要です。
神様の前に謙り、イエス様を信じ受け入れたクリスチャンは、今度は自分が知っていること、体験したことを語ります。変わることのない救いの恵みを繰り返し語るのです。そして神様のことばを継続的に学ぶ中で、その救いの恵みの素晴らしさ、そして聖書の真実をより豊かな内容で語るのです。