イエス・キリスト様を信じて、聖書に書かれていることをベースにして生活しようとしたり、聖書に書かれていることを伝えたりすると反対されることがあります。時には迫害と言う深刻なものにまで発展するかもしれません。イエス様の弟子であったペテロ達は純粋にイエス様を信じて、イエス様を伝えていたことによって、捕まえられ議会で尋問されることになりました。しかし彼らは、彼らだけでそこに立っていたのではありません。聖霊なる神様が共におられ、彼らのために働いてくださいました。今回は迫害の中でご聖霊がどのように働かれたかを学んでみます。(使徒の働き4:13-22)
①ご聖霊の働きはクリスチャンの証しを明確にします (13-14節) →ペテロは議会を前にして力強くイエス様について語りました。そこに集まった宗教指導者達はいくつかのことを認めざるをえませんでした。まず ①ペテロ達の大胆さです。ペテロはイエス様が十字架に架けられる前に、恐れから、イエス様のことを知らないと言ってしまいました。そんな臆病なペテロの姿はそこにはありませんでした。聖霊なる神様からちからと勇気をいただいて確信をもってイエス様を語り伝えることができたのです。そして ②ペテロ達の無学さ/凡人さです。彼らは元々漁師でした。目の前にならんでいる人たちのように、ユダヤの律法を充分に学び訓練された人達ではありませんでした。そういう「普通の人」が神学を語ることは宗教指導者達にとって驚きでした。そこでわかってきたのは ③ペテロ達の後ろ盾です。以前権威あるお方としてお語りになったイエス様とペテロ達が共にいたことです。(そしてイエス様はなお共におられたのです!) 社会的には認められるものを特にもっていなかったペテロ達は、神様からのちからをいただいて迫害する者達の前に立っていたのでした。最後に ④ペテロ達の証人です。生まれながら足が不自由であった人が癒されて共に立っていました。奇跡が真実であることの動かぬ証拠を宗教指導者達は認めないわけにはいきませんでした。
②ご聖霊の働きは人の罪深さをあぶりだします (15-18節) →真の神様のちからが明確にあらわされても、それを素直に受け入れないのが人間の罪深いところです。宗教指導者達にとって、ペテロ達の存在は都合の悪いものでした。律法を破ったわけでもない二人を、町全体の注目を浴びた奇跡を理由に罰することにはリスクを感じていました。しかし、ペテロ達によって、メシヤであられるお方を処刑した罪を負わされること、またイエス様のお名前による癒しや教えが続けられていくことにも我慢ができなかったのです。彼らはペテロ達がおこなった奇跡を否定できるものなら否定したかったのです。一方ペテロ達の奇跡や語ることによって自分たちの態度を改めようというつもりも全くありませんでした。ただペテロ達の活動を止めさせるために出来る限りのことをしようと考えたのです。しかし頑固な彼らに出来たことは脅すことだけでした。
③ご聖霊の働きは神様の素晴らしさをあらわします (19-22節) →ペテロ達は彼らの脅しに動じませんでした。人ではなく、神様の権威に従うことが正しいことを知っていたからです。イエス様のことを伝えることはイエス様からの命令です。ペテロ達にとって自分達が体験したことを語ることを止めるわけにはいかなかったのです。ペテロ達は神様に従うことを選びました。そして真実を語ることを選びました。一連の出来事を見た人々は神様をほめたたえました。そのような中で、宗教指導者達はペテロ達を釈放しなければならなくなったのでした。
結論: ご聖霊の働きのある所に神様の勝利の栄光あり →聖霊なる神様の働きによる不思議なわざについて、宗教指導者達は反論できず、否定も出来ず、ペテロ達を黙らせることさえできませんでした。現代においても聖霊なる神様のお働きの中で福音のメッセージが語られる時、同じことが起こるのではないでしょうか。クリスチャンは生き方において、また語ることにおいて、私たちが信ずる神様(イエス様)の素晴らしさを表現していく責任と祝福をいただいています。クリスチャンであることによってしばしば困難な状況に置かれることもありますが、常に働いてくださる聖霊なる神様に頼りつつ、力強い勝利の歩みをさせていただきましょう。