人生において「選択」はつきものです。私たちは、国民として選挙に参加し、学校を、そして職場を選びます。私たちは選ぶことにおいて一定の自由があります。しかし、一方で選ぶことができないこともあります。自分の親や生まれる国などは本人の意思に関係なく決められるものです。そこにはこの世界を造られた神様の支配が存在します。神様に造られた私たちは、神様の支配と、与えられた自由意志の中で日々生きているのです。
さて聖書には最も大切な「選択」について書かれています。それはまことの神様を信ずるか信じないかという選択です。モーセの後継者となったヨシュアは、イスラエルの人々に向かって自分がお仕えする神を選ぶようにと言い、自分と自分の家族はまことの神様にお仕えすることを選ぶと宣言しました。(ヨシュア24:15)イスラエルの人々は神様に選ばれた特別の民ではありましたが、出エジプトを経験した後も神様に従わず、反って異教の偶像崇拝の影響を受け続けていました。そのような状況の中で晩年のヨシュアは同胞の行く末を案じたのでしょう。日本人の殆どは、選択という意識のない中で、神でないものを神として、拝み、供え物をすることを先祖から受け継ぎ行い続けています。しかし、その行為はまことの神様を深く悲しませることであり、大きな怒りを招くことであることを知らなければなりません。
まことの神様を信ずること、そして神の御子イエス様を信ずることは、まことの神様を選ぶことです。(ヨハネ1:12)その選択は神様と親子の関係になるという祝福をもたらします。残念ながらユダヤ人(イスラエル人)は肉体をとってこの世界に来られたイエス様を拒絶するという誤った選択をしました。神様はこの世界の人々に愛をあらわしてくださり、その愛を受け入れる(信ずる)人に永遠のいのちをくださいます。(ヨハネ3:16)そのいのちは神様と共にいつまでも暮らすことを可能とするものです。信ずる人は、神様の前における罪がゆるされて、滅ぼされることがなく、信じない人は滅ぼされるのです。人にできる選択は信じるか信じないかのどちらかです。信じない人は神様の怒りの対象であり続けるのです。ですから、救い主であられるイエス様を信ずることを選び、神様の怒りが及ぶところから救い出されることが重要なのです。(Iテサロニケ1:9-10)神様からの祝福、真の幸いを求めるならば、神様のことばを聞いて、賢い、正しい選択をしなければなりません。(マタイ7:24-27)そしてすでにイエス様を信ずる選択をした人は、周囲の人も正しい選択をするように愛をもって警告する必要があります。