今回は神様からのメッセージを語り、天を見つめたステパノに注目します。天を見上げるとは、単に上を向くということではなく、神様に心を向けるということです。ステパノは神の御子イエス様を見上げる歩みをした人です。彼の姿から、主を見上げる者は、何を認識し、どのように歩むかを学びたいと思います。(使徒の働き7:51-60)
①主を見上げる者は神様の基準で正しく罪を認識する (51-53節) →聖書が語る罪とは、一般的な犯罪ではなく、神様に対して犯すものです。この世界の創造主であられるお方に従わない、このお方を信じない、敬わないといった唯一のまことの神様に背を向ける態度・考え方・生き方のことです。このような傾向―罪の性質―をもったすべての人間は結果的に、社会における犯罪を含めて様々な悪を、様々なかたちで行っています。今回の箇所でステパノは、彼の話を聞いている人々を「いつも聖霊に逆らっている」人たちであると言いました。(a.)聖霊に逆らう罪:頑固と不従順のかたまり(51節) ステパノが語っている相手は殆ど全員がユダヤ人です。彼らは他の人々(異邦人)とは違い、より身近なところで神様のことを学び、神様に対してどのように生きるべきかを教えられてきた民族です。それにもかかわらず、ユダヤ人の歴史は神様に対して頑固で、従わず、逆らうものでした。(b.)聖霊に逆らう罪:みことばを伝える者への迫害(52節前半) 神様はご自分のお考えを人々に伝えようと預言者を遣わされましたが、人々はしばしば預言者を拒絶し、預言者を殺害したことさえあります。(c.)聖霊に逆らう罪:イエス様ご自身への反逆(52後半) ユダヤ人の先祖はイエス様(メシヤ)が来られることを語った預言者を迫害しましたが、今ステパノの目の前にいる人々は、完全に義であられるイエス様本人―救い主として来られた神の御子―を十字架につけてしまいました。(d.)聖霊に逆らう罪:みことばへの反抗(53節) 人々はステパノが律法(神のことば)に逆らうことを教えていると非難しましたが、実は彼らこそが神の律法を破っているとステパノは語りました。
罪の世界で生きていると、罪に慣れてしまうものです。私たちは今の時代にあっても、神様のみことばから何が正しく、何が間違っているかを判断する必要があります。主を見上げる人は神様の基準で罪を見ることができる人です。
②主を見上げる者は神様のご臨在(存在)を正しく認識する (54-59節) →人々はステパノの語ったことを素直に受け入れ、態度を改めることはしませんでした。反って怒りに満ちた態度で歯ぎしりをしながらステパノに向いました。そのような中でもステパノは主を見上げていました。(a.)神のご存在を認識する者:聖霊に満たされている(55節前半) ステパノは荒々しく自分に向って来る人々がいる中で、平然としていました。神様への思い、神様についての思いで満たされることにより、状況に左右されることのない平安があったからなのでしょう。(b.)神のご存在を認識する者:神の栄光を見る(55節中) ステパノはかつて預言者イザヤやエゼキエルが体験したように、そして後にパウロやヨハネが体験するように、神様の栄光の幻を見ました。(c.)神のご存在を認識する者:イエス様ご自身を見る(55節後半-56節) この場面でイエス様は特別に立っておられました。それはイエス様のために生きたステパノを、イエス様が擁護され、神様の御前へと招待しておられるかのようです。(d.)神のご存在を認識する者:イエス様にすべてを委ねる(59節) 神を冒とくする者としてステパノは訴えられ、処刑されましたが、それは正式な手順によるものではなく、暴徒化した人々によるものでした。しかしステパノは死の間際においても、主から目を背けることなく、主に全面的にお頼りしました。それは十字架にかけられたイエス様にならうものです。主を見上げる人は、死を覚悟する場面においても、全面的に(個人的な関係を持っている神様に)依存することができる人です。
③主を見上げる者は神様に反逆する者たちに対して正しく対応する (60節) →ステパノは最期まで主を見上げることを貫き通しました。(a.)彼らに対して自ら復讐しない:主を見上げ、主にすべてを委ねることができる人は反撃しようとは思いません。ステパノは人々と自分というだけの視点で状況を見るのではなく、神様の存在を視野に入れて状況に対処することが出来る人でした。そのため ひどい仕打ちにあっても恨むというような思いは起こらなかったのでしょう。(b.)彼らのために祈る:ステパノは抵抗や反撃をしないだけでなく、自分を今まさに殺そうとしている人々のために祈りました。これもイエス様の十字架上の姿と重なります。ステパノは単に彼らの罪を責めることを目的としていたのではなく、彼らが態度を改め、神様との正しい関係を回復することを心から願っていたのがわかります。それは神様の罪人に対する御思いです。主を見上げる人は神様の愛と憐れみの心をもって人々に対応することができる人です。
まとめ:主を見上げる者を、主は尊んでくださる(評価し喜んでくださる) →あなたは何を見て毎日生きていますか。イエス様を見ていますか。イエス様のおことば、お考えに思いがいっていますか。イエス様を見上げることなく、周囲を見、自分を見、人を見ている時に私たちは罪に陥ったり、失望したり、神様が喜ばれない考え方や行動をしてしまうものです。みことばを味わい、イエス様に語りかけること(祈り)によって、神様の素晴らしさを見つめ、神様が喜ばれることを選び、神様に全面的に頼ろうではありませんか。常に主を見上げる者となりましょう。