先月クリスチャンの成長、前進について学びましたが、今日はその続きを学びたいと思います。
子供が成長することは素晴らしいことです。しばらく振りに会って成長しているのを見ると嬉しいものです。
神様のご計画は霊的に成長し発展することです。神様の栄光を顕し、神様に栄光を帰すること、それが神様のご計画なのです。
世の中では、ノーベル賞や国民栄誉賞、叙勲など、褒美は優れた人に与えられます。羨ましい一面もありますが、人にとって一番大事なことは、神様に褒められることです。神様を除外してのこの世の誉れは、草や花のようで永続しません。この世で終わってしまうものです。
私たちクリスチャンはこの世の人よりももっと優れた素晴らしい特権に与っていることを認識する必要があります。
神様が創造されたものの中で、人間が最高の被造物です。しかし残念ながら最初の人が罪を犯した結果、罪人の子孫として生まれてきました。負の遺産を背負って生まれてきたのです。悲しみや苦労を経験しなければなりません。そのような罪人に、神様の憐れみで救いの手が伸べられ、福音が伝えられました。
クリスチャンの集まりである教会も、成長して栄光を顕すように求められていますが、相反して未成熟な状態の場合もあります。Ⅰコリント3:1~あるように、神様に属する者であっても、状態において幼児であることがあります。幼児は可愛いですが、いつまで経っても幼児のような可愛いままでいるならば、何か病的なことがあって成長しないということになり、気の毒なことです。
クリスチャンも同じです。神様との交流は霊によってのみですが、罪人として生まれた人は霊的に死んだ状態ですから、神様と交流することができません。真の神様との交流ができないから、目に見えるものに頼るようになるわけです。イエス様を信じることにより、霊が活かされ神様との交流を回復することができます。真の神様との交流が出来るのは主を信じた人だけです。
しかし、イエス様を信じて祝福されていても、幼児のままでいる人もいます。幼児は他の人を助けることが出来ません。成長していないと、誰かの助けを必要とします。立場においてキリスト様に属していても、世の人と同じような生活をしている人がいます。コリントの人はそのような人が多かったのです。
主によって救っていただいた人でも、状態が肉に属しているなら、成長しません。新しい生命で生きるためには、聖霊に頼ることが必要です。
コリントの人たちの間には、妬みや争いがありました。教会の中にもこのような病的なものがあると、何年経っても成長しないのです。非難や攻撃するのではなく、悪い部分については補い合い、助け合うことが求められています。みことばに照らしていただき、自分はどうであるか、聖霊に示されたことを認め、悔い改め赦しをいただくことで、不純物を排除することができるのです。
ヘブル5:11~14において、義のことばに習熟していない人のことが言われています。耳が鈍くなっているため、みことばを理解することが困難になっているのです。学ぼうとする態度、吸収する意欲がなければ、何年経っても成長しません。子供は乳から始めて、だんだん堅い食べ物が食べられるようになります。霊的にも、初歩的なことから始めて、成長すると難しいことも理解できるようになります。そうでないといつまで経っても初歩的なことしか受け入れられない人になってしまいます。
ルカ13:6~9では、実を結んでいないイスラエル人の状態が言われています。私たちは実を結んでいるか、神様に栄光を帰しているか、省みる必要があります。実を結んでいないならば、今は聖霊による助けがあります。病的なものを排除し、実を結ぶ能力がないことを素直に認め、言い表し、赦しを求めることです。神様は何もかも一方的にしてくださるのではないのです。私たちはロボットではありませんから、私たちのできる分は行い、従い、依り頼む必要があります。そして、神様は私たちの出来ない分をしてくださいます。
私たちクリスチャンには、後の日、天において褒美が与えられる、素晴らしい立場、特権が与えられています。出来ない部分を認め、言い表し、みことばに従うことを神様は望んでおられます。神様の憐れみによって行わせていただいたことも、私たちが行ったこととして褒めてくださるのです。それを楽しみに毎日過ごす事ができることは幸いです。