ガラテヤのクリスチャンたちも、彼らを惑わしたユダヤ主義者たちも、旧約聖書を信ずる人たちです。(パウロの生きていた時代にはまだ新約聖書はありませんから、聖書と言えば旧約聖書になります。)パウロはどちらのグループにもこの旧約聖書という同じ土台で議論を継続します。前回 6節でアブラハムの義認について触れましたが、さらに今回の箇所でアブラハムとガラテヤのクリスチャンたち、そして現代を生きる私たちクリスチャンとの、義認の真実におけるつながりを説明していきます。(ガラテヤ3:7~9)
I. 信仰によって義とされた人は アブラハムの家族である (7節)→「信仰による人々」とは、信ずること(またその姿勢)が(継続的に)生き方にあらわれている人々のことです。アブラハムはまことの神様を信じ信頼した人です。彼はそのことによって、神様に義と認められました。かつてアブラハムの先祖は、ユーフラテス川の彼方に住み、他の神々を拝んでいました。(その意味においては彼も異邦人だったのです。)そのような中に生まれ育ったアブラハムを、神様は召し、契約を結ばれました。ユダヤ人のルーツはアブラハムにあります。(パウロに反対する者たちも含めて)すべてのユダヤ人はアブラハムを信仰の父と認識し、自分達のお手本としてきました。ですから、彼と同じ信仰態度を持つ者は、「アブラハムの子孫」であるとパウロは言います。(“行いによる救い”を主張するユダヤ主義者たちは、割礼や律法を守ることによって、人(そして異邦人)は真のアブラハムの子孫になることができると信じていました。)神様の前における信仰、そしてそれによる(義認という)結果を得たという点で霊的に(神様に属する者として)アブラハムとつながっているということです。(参考箇所:ガラテヤ3:29; ローマ4:11-13,16; 創世記15:6; IIコリント5:21)
II. 信仰によって義とされることは すべての人々への福音である(8節)→神様からの良い知らせである福音は、その昔アブラハムにも届けられたのです。信仰による義認は、神様の救いの方法として、アブラハムに、そしてその後に生きるすべての人々に備えられていたのです。この節にある、神様のアブラハムに対する約束には二つのポイントがあります。一つはこの約束には異邦人も含まれることが意図されていること、もう一つはこの福音の約束はユダヤ人に対する(律法を与える等の)神様の取り扱いの前に来ているということです。(参考箇所:創世記12:3; 18:18; 22:18; ヨハネ8:56; 使徒26:22-23)
III. 信仰によって義とされた人は アブラハムとともに祝福を受ける (9節)→信仰者アブラハムと同じ福音を受け取り、彼と同じように神様(そして神様の救いのご計画)を信ずる人は彼と同じ祝福に与ります。それは神様と関係を持つことを妨害していた罪による壁が取り払われ、永遠にわたって交流することが可能になるということです。またそればかりでなく、日々の信仰の歩みにおいて祝福を経験するということです。それは神様(イエス様)を信じて従うゆえの祝福です。神様はクリスチャン一人一人の個人的な生活に関わってくださいます。そして時には先の見えない中で、また望まない状況を通して、その先にある祝福へと、ご配慮の中で導いてくださるのです。
まとめ:信仰義認の現実を認識し、その効果を経験しましょう→イエス様による救いをいただいた私たちは、確かに信仰の父と呼ばれるアブラハムとつながっています。アブラハムに語られた福音は、私たちにも伝えられました。私たちはアブラハムと祝福を共有する者となりました。“信ずる者は救われる”とは世間では揶揄される表現ですが、聖書的には真実です。神様の義の標準に達することが絶対に不可能な罪人が、神様(イエス様)に信仰をおくことによって救われるのです。信仰義認を適用された私たちクリスチャンは、神様を信頼することによる祝福を、将来(天の御国)においてだけでなく地上の生活においても、もっと経験できるはずです。