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人はなぜ不安になるのでしょうか。それは確かなもの、絶対的なものを知らない、持っていないからではないでしょうか。自分の能力や経済力、そして地位や関わる人々は、それらはどれも確かなものではありません。それでもなお、多くの人はそれらを追い求めます。そして、それらを確保することで、“安心している”ように見えます。しかし、本当のところは、何かをごまかしているのではないでしょうか。一番の核心部分に触れること、それと向き合うことを避けて、つかの間の“平安”に酔いしれているだけではないでしょうか。
さて、クリスチャンは絶対的なお方であられる神様を知り、このお方から確かな救いをいただいたのですから、日々の生活においても確かな平安を持つことができるはずです。今回はイエス様を信じる者が経験する平安とはどのようなものであるかを学びたいと思います。(ヨハネの福音書16章25~33節)
イエス様が父なる神様のもとへと去って行かれる時、“聖霊の時代”がやってきます。その時、弟子たち(そして後に続くクリスチャン)は、イエス様のお名前によって直接、神様に祈り求めることができるのです。それは、イエス様のあがないのみわざゆえに与えられる立場です。弟子たちは、御子イエス様を愛し、信じたことにより、父なる神様との関係が確かなものとなったのです。父なる神様の彼らへの直接的個人的愛は保証されているのです。
イエス様が弟子たちの信仰が不完全であることは承知の上で、彼らの告白を受け止めてくださいました。彼らは、まもなくイエス様を置き去りにしていってしまいます。しかし、イエス様は彼らを頼っておられるのではありません。父なる神様が、イエス様とともにおられ支えておられる確信の中で、十字架へと進んでいかれるのです。これらのことを踏まえて今回のポイントに入りたいと思います。
33節には、「わたしにあって」と「世にあって」が対照のポイントになっていると思います。イエス様が弟子たちに、持つようにとお望みになっておられる平安は、「つまずくこと」とは対極にあります。主に在る者がもつ平安は、主が与えるもの(14:27)であると同時に、主自らが楽しまれ、人々と分かち合われるものです。この平安は、弟子たち(信じる者たち)が、イエス様にとどまり続ける限りにおいて彼らのものなのです。
I. 主に在る平安は、世にある患難と向き合わせる “患難の現実を受け入れなさい”
イエス様は、弟子たちの前途に難しさが存在することを語られました。イエス様を憎む世は、イエス様に従う者たちを同様に憎むのです。(15:18-16:4; マルコ13:9) 現在私たちは、ペテロやヨハネが経験した迫害の苦しみはないかもしれません。しかし、この世にあっては、様々なことで、難しさを経験します。自分の犯した罪、或いは罪深さゆえに、その結果を受けるということもあるでしょう。日々接する人々から受ける苦しみ、悩み、痛みがあるかもしれません。また、経済的・肉体的・精神的に困難を経験するかもしれません。そして、迫害とまではいかなくても、イエス様に対する信仰ゆえに、難しいところを通っていかなければならないかもしれません。それらは、世にあって現実です。しかし、信仰者は、主に在る平安をもって対応することができます。世にあっても、「主にあって」が勝るのです。
II. 主に在る平安は、勇敢であることを可能にする “主に在って勇敢でありなさい”
イエス様は、患難に向き合う勇敢さを求めておられます。これは命令であり、励ましです。特に信仰ゆえの患難は、主に認められていることのしるしであり、天の御国で経験するところの永遠の至福の先触れとして受け入れることが励まされています。(ローマ8:17) 勇敢さとは何でしょうか。それは思い込みで行動することでも、無鉄砲であることでもありません。また、自分を信じて行動することでもありません。勇敢さとは、命令しておられるイエス様を信じ頼って従い、行動する姿です。イエス様にとどまる者は、イエス様のちからを信じているため、勇敢であることができるのです。
III. 主に在る平安は、主の勝利を土台としている “主の勝利に信頼しなさい”
クリスチャンが持つことができる平安は、イエス様とイエス様のみわざに基づいています。イエス様が世に勝利されたことが、患難におけるちからとなるのです。(ローマ8:37)イエス様は、十字架の死と復活により、悪魔に、罪に、死に、そして世に対して勝利されました。イエス様を信じるクリスチャンは、悪魔の支配、そして罪の奴隷の状態から解放され、イエス様のものとされています。
主に在る平安とは、神様の前に罪がゆるされている事実にあります。また、永遠の幸いが約束されている事実にあります。さらに、全知全能であられる神様の御手が、クリスチャンの歩みを導き、護り、支えておられる事実にあります。これはみことばを根拠とした平安であり、信仰による平安です。
まとめ: 主に在る平安は、主を信じる者とともにある
クリスチャンでも、自分自身に依存するのであれば、その先にあるのは失望です。当てにならない自分を信じる歩みは、まさに綱渡り状態。そこに平安はありません。
クリスチャンが主に在る平安を持つことは、患難が消滅することを必ずしも意味していません。しかし、患難が存在する中で、その経験はイエス様に目を向けさせ、イエス様にある立場を思い起させます。そしてイエス様に在る勝利を先取りさせるのです。
勝利者であられるイエス様に信頼し、委ね、ちからをいただきましょう。みことばを信じ、平安を与えてくださるイエス様に祈り求めましょう。イエス様を信じるとは、絶対的なお方を信じるということです。確かなみことばを信じるということです。この信仰の上に、絶対的な平安が存在するのです。