主イエス・キリスト様の十字架の死は、神様と私達との関係における救いの基礎です。救いとは、神様との関係を妨げている罪の問題の解決―罪がゆるされること―を意味し、死後永遠に続く罰の免除を意味し、永遠に神様と共に過ごすことができる祝福を意味します。しかし、疑問が残ります。イエス様を信じて救われた後でも、なお不完全な部分を自他ともに持ち、“救われていない部分”を持ちつつ信仰生活を続けているからです。今回は救いの完成という観点から学んでみましょう。
先ず、救いは段階的であり、現在は未完成であることを理解する必要があります。パウロの叫びのように、私たちは死のからだからの救いを求めているのです。(ローマ7:24)救いの立場は与えられていますが、状態においては、なお悩める者であり、肉体的なことは未完成です。私達は今しばらくこの苦しみを経験せざるを得ません。(ローマ8:18~22)神様の標準がみことばによって示され、それを受け入れたことによるもがきや葛藤もその苦しみの一部と言えます。そのような中で、私達はからだがあがなわれることを待っているのです。(ローマ8:23)
次に、救いの完成は、主の再来によって実現することを理解する必要があります。イエス様がやがて天からおいでになる時、すでにイエス様を信じて亡くなったクリスチャンは復活します。(Iテサロニケ4:16)その時生きているクリスチャンは、復活したクリスチャンと一緒にイエス様の所へ携え挙げられます。(Iテサロニケ4:17)
さらに、救いの完成は、完全な人体を形成することを理解する必要があります。天に国籍を持つクリスチャンを迎えに来られるイエス様は、救いの完成者として来られるのです。(ピリピ3:20)それは幸いな望みです。その時、私達の卑しい状態であるからだは栄光のからだに変えられるのです。(ピリピ3:21)それは復活されたイエス様がそうであったように、肉体を持ちながら、なおドアを開けることなく部屋に入ることが出来ることなどを含む素晴らしいからだです。
最後に、救いの完成は永遠の幸いな状態であることを理解する必要があります。天の御国における永遠は、悲惨な状態・状況からの完全で継続的な解放を意味します。(黙示録21:4)そのような環境の下、私達は聖なる神様と共に住むことが出来るのです。(黙示録21:3)
私達の前には、主イエス・キリスト様の死に基づく素晴らしい未来が広がっています。このことを感謝し、待ち望みつつ歩もうではありませんか。