二週間前に神様に「従う祝福」について学びました。ヤコブの手紙4:7には神様に従う命令と同時に「悪魔に立ち向かいなさい」という命令が与えられています。最初に罪を犯したアダムの子孫として私たちは罪の性質を受け継ぎ、クリスチャンになっても尚 罪との戦いの中にあります。また神様に従わないこの世界の勢力との戦いも存在しています。そのような状況の中で神様に従うことと悪魔に立ち向かうことは信仰生活における勝利のための攻撃と防御の両面を持っていると言えます。
Iサムエル記15:22-23には神様に従うことはささげものより大切なことであることが教えられています。ではどのようにして神様に従うことが可能となるのでしょうか。
そもそも私たち人間は従うことを自分のちからで実行することはできません。可能となるとするならば、それは神様からのちからが必要となります。私たちを真実へ、また真実の理解へと導いてくださった聖霊なる神様はクリスチャンのうちに住んでくださっています。私たちは日々様々な問題に遭遇しますが、その中でこのお方の助けによって「従う」ことを実行していくことが可能となります。(Iペテロ1:2)
クリスチャンの歩みの原点はイエス様の十字架の死です。イエス様のみわざによって私たちは贖われ(買い取られ)、イエス様の究極の模範が示されました。(Iペテロ2:21-25) イエス様によって私たちの罪の結果の傷がいやされ、「義のために生きる」ための究極のお手本が示されたのです。イエス様の贖いと模範は私たちにとって従う上での原動力となります。イエス様を信じた私たちは「牧者であり監督である方」の所に帰ったため、イエス様のいのちによって生活ができるのです。
従うためにはへりくだることが求められます。私たちはイエス様の十字架を見る時、イエス様の謙遜の姿を見ます。イエス様の謙遜を覚え、黙想する時、謙遜へと導かれていきます。(ピリピ2:3-4,6-8) また従うためには自己を捨てることが求められます。(ルカ9:23-24) 聖書を十分に学ぶことにより、それが現実のものとなっていきます。それは自分はイエス様と共に十字架につけられた者であるという認識の中で生きることを意味します。神様に従わなかった、従うことが不可能であった「古い人」が十字架で死に、イエス様を信じたことによって従うことが出来るいのちが与えられています。(ローマ6:6) イエス様と共に十字架につけられ死んだ者と見なされている私たちは、現在イエス様と共に生きることが可能であり、イエス様を信じる(イエス様に従う)信仰によって生きることが可能なのです。(ガラテヤ2:20)