人となられたイエス・キリスト様は、人としての立場で父なる神様にお祈りをなさいました。その祈りは人の代表として、またお手本としてのものです。祈りは神様への依存を含んでいますが、御子イエス様も人として、父なる神様に対してそのようなお立場にあることを表現されたと言えます。
イエス様の地上における公生涯のスタートは祈りで始められました。バプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになった時、イエス様がお祈りになったことが記されています。(ルカ3:21-22)御子イエス様は、父なる神様が喜ばれるお方であり、イエス様の祈りは心地良いものであったに違いありません。
イエス様は祈りを重要視されていました。イエス様は人々にみことばをお語りになり、病人を癒すなどの奇跡を行われ、忙しくされていましたが、そのような中でも荒野に行って祈る時間を確保されました。(ルカ5:16)私たちは衣食住のことを大切に思いやすいですが、神様との会話である祈りは霊的原動力として欠かすことができないものであることをイエス様は示してくださいました。
イエス様の祈りは時には夜を徹して行われました。(ルカ6:12)イエス様は数々のわざをなさいましたが、そのわざの供給源であられるお方への祈りをお忘れにはなりませんでした。(ルカ9:18)ある時には自分に近い3人の弟子たちと共にお祈りになり、ご自分の栄光の姿をあらわしてくださいました。(9:28-29)また弟子たちには何を祈るべきであるのかを教えてくださいました。(ルカ11:1-4)
私たちには神様に祈る特権が与えられています。生活における優先順位、重要度はどのようなものでしょうか。私たちの多くは信仰生活における祈りの部分を見直さなければならないのではないでしょうか。神様への祈りは、心労の要素が絶えることのないこの世の生活において、平安を常に保持する大きなちからとなることを再確認しようではありませんか。