お生まれになってまもないイエス様を訪問した人々の記録は聖書には2つしかありません。羊飼いたちと東の博士たちです。彼らはそれぞれ違ったかたちで「救い主誕生」の知らせを受けますが、両者共に礼拝の心をもって救い主に会うために行動しています。今回は東の博士たちの記事から学んでみたいと思います。(マタイ2:1-12)
①礼拝の心は充分な準備の中で生まれる →東の博士たちの正体や信仰については、聖書に詳しい記述がないので定かではありませんが、少なくとも彼らが不思議な星を見て、長い距離を旅してきたことは事実です。星の出現がイエス様誕生時であるならば、旅の準備、そしてイスラエルへの旅のために約2年という時間を費やしていることが推測できます。彼らは(動物を乗り物としたであろう)長旅の中で何を考えていたでしょうか。「ユダヤ人の王」に会うこと-礼拝という目的に集中していたでしょう。礼拝されるに相応しいお方について多くの時間思いをめぐらしたことでしょう。もし他のことに心が移ってしまったとしたら、おそらく旅を続けることはできなかったでしょう。私たちクリスチャンは毎日の生活が神様への礼拝であるということを前提として、定期的に他のクリスチャンと集まり、教会という集団によって礼拝をささげます。教会における礼拝は世の中の劇やクラッシック・コンサートを鑑賞するのとは違い、皆が参加するものであり、皆が心を合わせてするものです。あなたはどのような準備をもって礼拝に臨んでいるでしょうか。礼拝の直前、そして日々の歩みの中で、どのように礼拝の対象であられるお方-神様を黙想しているでしょうか。
②礼拝の心は神様にお会いすることを求める →東の博士たちは「ユダヤ人の王」を礼拝することを重要と考え、すべてを乗り越えていきました。そこにはリスクがあり犠牲が伴いました。博士たちは、よく絵に描かれているように3人だけの旅ではなく、それ以上のグループで移動したと思われますが、それでも盗賊や砂嵐、そして旅の途中の事故や病気などさまざまな危険が想定されます。彼らはそれらを超越しました。エルサレムに到着した彼らは「ユダヤ人の王」の居場所を人々にたずねまわったようです。そして彼らは当時の支配者ヘロデ王に会うことにもなりました。現役の王の所に誕生された王様を探しにいったことは結果論として、非常に危険なことと言わなければなりません。しかし博士たちにとって「ユダヤ人の王」に会うことは最優先でした。あなたは神様への礼拝を中心に(優先に)生活環境を整えているでしょうか。集うことが可能な教会、そしてそのための時間を確保した上で住まいや仕事を選んでいるでしょうか。あなたにとって礼拝は重要ですか。神様にお会いすることは重要ですか。
③礼拝の心はささげものを価値のあるものとする →エルサレムを出発した博士たちは再び不思議な星に導かれ、幼子のイエス様の所に無事到着しました。彼らはイエス様の前にひれ伏して拝み、高価な贈り物をしました。博士たちのイエス様との時間は、準備と旅の時間に比べるならわずかなものであったでしょう。しかし彼らはこのお方に会うために時間と労力を注ぎ、贈り物をしました。それはお生まれになった救い主イエス様への礼拝の心のあらわれです。彼らの心を神様はご覧になられ、ささげものを価値あるものとしてお受け取りになりました。クリスチャンが奉仕をし、ささげものをするのは、イエス様を通して救っていただき、恵みをいただいていることへの応答です。神様への賛美と感謝が真心からなされる時に、神様は私たちのわずかなささげものさえも喜んで受け取ってくださるのです。あなたの礼拝の心は神様に何をおささげするかより大切なことです。
まとめ:礼拝の心の充実は、神様との時間の充実に比例する →礼拝は神様への応答です。神様を知り、そして知り続けることによる応答、心から発生する応答、行動を伴う応答です。この応答のためには神様との時間が大事であることは言うまでもありません。毎日の(忙しい)生活の中で、私たちは神様に思いを傾ける何らかの手段を講じる必要があります。それらの積み重ねが礼拝の質を高めることとなるでしょう。今年あなたはどのような質の礼拝を神様におささげしたでしょうか。来年はどのような礼拝をおささげできるでしょうか。礼拝の対象であられる神様をもっと意識し、知る者としていただきましょう。
前回学んだ羊飼いたちは、近距離を手土産なしで、今回の博士たちは遠距離を宝箱と共に、救い主にお会いしました。社会的に身分の低い羊飼いたちと一目置かれる博士たち、それぞれを神様はあえて記事としてくださいました。それは私たちが礼拝においてバランスを保ち、どちらの極端にも走らないためではないでしょうか。心があるならば、表面的なことは無視しても結構というのではなく、表面的なことが整っていれば、心の状態は重要ではないというのでもありません。イエス様のゆえに誰でも礼拝のために神様に近づくことができますが、そこには厳粛さが求められます。神様はモノではなく心をお求めになられますが、礼拝の心は何らかのかたちとなってあらわされるものなのです。