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日本人は「一致団結」を好む国民性を持っているかもしれません。一昔前は、「国のために」ということで一致が強制されました。或いは、「賃上げ要求」というような利害にかかわることにも人は一致して声をあげます。今日学ぼうとしている一致は、強制されてではなく、また利害によるものでもありません。イエス様はクリスチャン(教会)の一致のために祈られました。それはどのような一致のための祈りなのでしょうか。(ヨハネ17章20~26節)
I. 一つになる模範:御子が御父と一つであるように(21節前半)
父なる神様と御子イエス様はそれぞれ人格もっておられ、その上で一つであられます。クリスチャンもそれぞれ違った存在ではありますが、主にあって一つの性質をもった集団を形成していくことが求められているのです。
II. 一つになる目的:世に対する証し & 栄光の共有のため(21節後半、23~24節)
イエス様がクリスチャンの一致を祈られるのは、イエス様が(御父から遣わされた)神であることを世の中の人々が信じるためです。そのためにクリスチャンは、神様(御父と御子)を示すことにおいて一つになるのです。またクリスチャンが神様に愛される存在であることを人々に知らせるのです。
またイエス様は自らの栄光の(クリスチャンとの)共有のためにも祈られます。このことは(完全な意味においては)イエス様がおいでになる時(或いはクリスチャンが召される時)に起こることです。その時、イエス様のありのままの姿を見るのみならず、その栄光を体験するのです。
III. 一つになる前提:栄光を与えられている & イエス様を神として認識している/神の御名を知り、知り続けている(22節、25~26節前半)
イエス様のお祈りの前提となることが少なくとも二つあります。(IIのポイントと矛盾するようですが)一つは栄光を与えられているということです。それは御子イエス様が父なる神様から栄光を与えられていることです。この栄光は罪人を(神様に対して)あがなわれたイエス様の勝利のみわざです。(計画上は与えられているが、賜るのは将来であるというとらえ方もできます。)
もう一つは、クリスチャンが、イエス様を神と認識し、また神様のお名前を知り、なお知り続けているということです。御子イエス様は、父なる神様について個人的な知識をもっておられ、また父なる神様との個人的な交流があるため、神様を明確なかたちで説明することができます。神様のお名前(愛と栄光)は、すでに弟子たちに示されたものではありますが、十字架の死において最高のかたちで示されたのです。
IV. 一つになる土台:愛(26節後半、23節後半)
御子イエス様が、父なる神様をあらわされることの中に、父なる神様の御子に対する愛が含まれています。そしてその愛をイエス様は弟子たちにお示しになります。イエス様は弟子たち(クリスチャン)と一つになることを望まれます。一つになることにより、彼らが父なる神様を知るからです。イエス様は、父なる神様、御子イエス様、そして聖霊なる神様の“内輪の”交流に彼らを含むことを望んでおられるのです。クリスチャンの一致、クリスチャンの神との一致は、愛による一致です。そしてそれは、クリスチャンが神様から与えられた啓示(みことば)を受け入れる(信じ従う)ことによって実現するものです。
まとめ: 主の祈りは、クリスチャンが主にあって一つになることである
クリスチャンの本当の一致は、強制的には、また利害関係のもとには実現しません。一致はクリスチャンの世界(キリスト教界)においても難しい課題であると思います。これは主にあって、そして主にあってのみ実現可能です。教会の一致は、個々のクリスチャンが神様と一つになっていることが前提となります。「神と一つになる」ことの性質を説明することは難しいですが、その結果はあらわれます。神様と一つになっているならば、その姿・生き方において神様の素晴らしさ(ご性質)があらわれます。態度・ことば・表情に反映されるのです。価値観や優先事項、そして選択の仕方に反映されるのです。このような、神と一つになっているクリスチャンの群れ(教会)は、神様が求めておられる一致を実現しています。そしてその教会は神に栄光を帰す教会であるのです。イエス様は教会の一致を祈られました。それは教会が効果的な主の証しをしていくために、また神様に喜んでいただくために欠くことができないからです。