“熱心さの伴わない知識は役に立たない、知識の伴わない熱心さは危険である”というのを聞いたことがあります。‘いくら聖書の知識があっても、それを実践しようとする情熱がなければその知識は役に立たない。また聖書の正しい理解が十分にないまま歩むと暴走する可能性がある。’ということでしょうか。
今回の箇所では「熱心」ということばが三度登場します。パウロは律法主義者(ユダヤ主義者・偽教師)の熱心、そして神様が喜ばれる熱心について語ります。今回はみことばが示す真実を土台とした熱心はどのようなものであるのかを考えます。(ガラテヤ4:17~20)
すでにこの章で、律法主義の間違いを受け入れることの結果として、①自由を手放すこと、②交わりを妨げることを学びました。今回パウロは、3つめの結果として、聖書の真実が無視され個人の気持ちが優先されることについて触れます。
I. 誤った熱心 (17節)→パウロは、律法主義者の熱意と動機について認識しています。(救われるためには人の側の行いを必要とすると考える)律法主義者たちはガラテヤのクリスチャンたちに熱心さをあらわしました。この熱心は‘好意を得るために相手に言い寄るほど深く思う’というもので、それは自身の目的と誇りが動機となっています。彼らはガラテヤのクリスチャンたちの熱心を空しい儀式主義に向かわせようとし、律法の下に再び閉じ込め、イエス様から引き離し、自分たちに仕えさせようとしたのです。その働きかけに惑わされたガラテヤのクリスチャンたちは、逆に律法主義者たちに‘言い寄る’者たちとなってしまいました。
II. 良い熱心 (18節)→熱心さが良い方法で、また良い目的のために存在するのであれば全く問題はありません。神様に目を向け、そして神様が聖書のことばの中で教えておられることがらに心を向ける中での情熱は、神様に受け入れられ喜ばれるものです。そのような意味において、クリスチャンはみことばを実行することにおいてもっと情熱的であるべきなのです。
III. パウロの熱心 (19~20節)→パウロにとってガラテヤのクリスチャンは自身の「子供たち」のような存在です。ですからパウロが彼らに対して主にあって熱心になることは当然です。パウロの目的は(律法主義者のようにではなく)とにかく彼らを助けることです。彼らが真の救いを経験し、そして「キリストが形造られる」まで働くことです。イエス様に似た者として成長していくことは、救いをいただいた(聖化の過程にいる)クリスチャンのゴールです。(ローマ8:29)その助けをしていく上で、パウロは痛みの伴う働きに情熱を注いでいるのです。それは、パウロの神様(イエス様)に対する熱心さのあらわれです。パウロは神様から与えられた教えを変更するつもりはありません。また、彼らへの期待を変えるつもりもありません。しかし、どのように彼らにアプローチし、導くべきなのかと苦慮しているのです。
まとめ:みことばの真実に基づく熱心さは、自身を、そして他者を神様の御心に向かわせる →神様が受け入れてくださる熱心さは、神様から与えられ、神様に向けられるものであるべきです。神様によって熱く燃やされ、神様のために注がれる情熱であるべきです。見つめるところは自分ではなく、人でもなく、神様です。クリスチャンが正しいと信ずるところを行うのであれば、或いは正しくないと判断するところを行わないのであれば、それは、神様を愛するがゆえにする、或いはしないという熱い思いが土台になければなりません。そのような熱心さは、自分自身を神様のお考えを行うようにと促し、また他のクリスチャンが神様のお考えを行うようにと励まします。