ローマの護衛により、パウロがカイザリヤに移送されて五日後、大祭司、長老たち、そしてテルトロという弁護士もやってきてパウロを総督の前で訴えました。テルトロは事実とは程遠いお世辞を並べ立て本題に入ります。パウロについてはローマの法、ユダヤの法、そして神の法を犯す厄介な存在であることを印象付け、ユダヤ人たちもこれに同調しました。
今回はテルトロがパウロについて説明した(真実ではない)事柄を取り上げ、本来クリスチャンとはどのような者たちなのか、どのような者たちであるべきなのかを考えたいと思います。
クリスチャンは伝染病のような者なのか →ある人々はクリスチャンに対して“アレルギー”を持ち、関わらないように、教会に近づかないようにしています。それだけを考えるとクリスチャンは何か害をもたらす存在であるかのようです。しかし実際は、益を与える存在です。(マタイ5:14)本当の救い、幸いを経験している者として、イエス様を指し示す存在です。イエス様からの光をいただいて、その光を反射する役割を果たすことができる存在です。
クリスチャンはさわぎを起こす者なのか →クリスチャンがイエス様に従っていこうとするときには、確かに社会において波風を立てることがあります。しかし本来、クリスチャンは秩序(平和)を提供する存在です。(マタイ5:9)まことの神様、そしてみことばの権威を示す存在です。人々が神様の権威の下に自身を置く時、本当の意味での平和が実現し、秩序ある社会が生まれます。
クリスチャンは異端児なのか →神様に従おうとするクリスチャンは、必然的に社会からはみ出してしまう存在となります。結果的には目立つ、型破りな者となることがあります。クリスチャンは聖書のことばを基準として生きる存在だからです。(ヘブル11:38)
クリスチャンは無礼な者なのか →イエス様に対する信仰を堅く持つことと、他の信仰をもっている人(或いは無神論者)への侮辱的言動は両立しません。クリスチャンは神様の前における正しさをもって行動する存在です。(エペソ4:15)みことばの真実を語りますが、礼儀をもって行います。そこには、同じ救いの恵みに与ることを切望する愛の心が必要です。
まとめ:クリスチャンとは、神を愛し、人を愛する存在である →クリスチャンはイエス・キリスト様を唯一の神、そして自身の個人的な救い主として信じる者たちです。そしてクリスチャンの生活は神様を愛することを土台とし、動機としています。神様を愛することを優先させることにより(正しいことを選択することにより)、結果的には社会において“迷惑な存在”となる可能性もあります。しかし、一方で神様への愛(神様が喜んでくださることを行い、悲しまれることをしない生き方)が確保される範囲内において、クリスチャンは神様から与えられた愛を惜しみなく周囲の人々にあらわすべき存在でもあるべきです。