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ローマ帝国時代のクリスチャンたちは激しい迫害の中で、他のクリスチャンに自分が同じ信仰をもっていることを暗示的に伝える手段として魚のマークを使用しました。なぜ魚のマークであるかというと、魚を意味するギリシャ語(イクトゥス)の5つの文字が、それぞれ“イエス、キリスト、神の、子、救い主”の頭文字をならべたものになるからです。これがキリスト教のシンボルになり、後に2本線にギリシャ語を加えたもの、或いはJESUS(イエス)と書かれたものも使われるようになりました。今回はこの“魚”が登場する記事から学びたいと思います。(ヨハネの福音書21章1~14節)
I. 問題が与えられる(1~5節)
復活されたイエス様はテベリヤ(ガリラヤ)の湖畔でご自分を7人の弟子たちにあらわされました。ペテロたちは前日の晩から漁に出ていき、収穫なしで帰ってきたところでした。夜明けに岸辺に立っておられたイエス様を弟子たちは認識できませんでした。何も捕ることができず、沈んでいる彼らに、イエス様は声をかけ、あえてその現実を突き付けました。
多くの人は目標を立て、そこに労力を注ぎ、事を成し遂げようとがんばります。しかし、自分の計画したようには物事が進まないことがしばしばです。失敗し、困難に遭い、挫折してしまう人もいるでしょう。これはクリスチャンである、なしにかかわらずです。しかし神様は人が抱える様々な問題を通して、ご自分に注意を引かせられるのです。
II. 祝福が与えられる(6~7節)
イエス様は、舟の右側に網を打つように指示し、魚を捕ることができることを断言されました。弟子たちはまだイエス様に気付いていませんでしたが、その指示に従って網を打ちました。すると網を引き上げることができないほどの数の魚が網にかかりました。弟子のヨハネは最初にイエス様を認識しました。そしてそのことを知らされたペテロは上着をまとって湖に飛び込みました。上着をまとったのはイエス様への畏敬を示してのことです。
世の中には、肉体的に、物質的に、そして経済的に“恵まれている”人々がいます。それらを与えられたのは神様です。そして彼らが、祝福の源であられる神様を認め感謝をささげ、与えられているものを神様のために用いるならば、そこにまことの祝福があります。造り主、与え主であられるお方の前にへりくだって礼拝をささげることができる人には祝福があります。一方、良いものを手にしても、“神なき人生”であるとしたら、その祝福は地上における一時のものとなります。
III. 主との交わりが与えられる(8~14節)
漁の指示を与えたイエス様は、弟子たちのために炭火をおこし、魚とパンの朝食を用意してくださいました。そして弟子たちに(イエス様が捕らせてくださったのですが)捕った魚を持ってくるようにと仰いました。153匹の大漁でしたが、網は破れずに済みました。イエス様は常に“適度”な、みわざをあらわされます。イエス様は弟子たちを朝食に招かれました。弟子たちは、主を認識しながらも、それをあえて口にしませんでした。そうする必要もなかったでしょうし、イエス様が共におられということで十分であるという感覚であったかもしれません。イエス様は、ある意味において微妙な雰囲気を発していた弟子たちのほうに自ら近づいてくださり、パンと魚を与えられました。
この交わりにおける一番のポイントは、主のご存在です。すべてをご支配なさる主が共におられ、このお方を個人的に知り、関係を持っているということです。イエス様を信じ、イエス様を持っている人はすべてをもっている人です。この交わりは何物にも代えることはできません。
まとめ: まことの神様のご支配を認める者に、まことの幸いはもたらされる
神様が人を取り扱われる時には、そこに憐れみ深い意図があります。人にとって良いと思われることであれ、災難と思われることであれ、そこには神様の目的があります。神様は様々な状況を用いてご自分に心を向けさせるのです。結果的に神様を知ることができる人は幸いです。神様の視点で(或いは神様を視野に入れて)物事を見ることができる人は幸いです。様々な経験の中で、神様のご支配を知り、認め、神様に自身を委ねる人は祝福されます。人が問題に遭遇する時、それを大事なことを学ぶチャンスとすることができるならば幸いです。祝福を受ける時、それを与えてくださった神様への敬虔さを失わず、賛美をささげることができるならば幸いです。イエス様を通して与えられた神様との永遠の関係という祝福を土台として、人生における(物質的なことを含む)祝福を受け、それを正しく認識することができる人は幸いです。