イエス・キリスト様の十字架の死は、私たちのためのものであったわけですが、ガラテヤ2:20では私たちがイエス様と共に十字架につけられたという表現がなされています。今回はこの共にという側面からイエス様の十字架について考えたいと思います。この箇所でパウロが宣言している3つのことに注目してみましょう。
①私はキリスト様と共に十字架につけられました →ここでパウロは驚くようなことを言っています。自分は死んだ、十字架刑によって死んだ、しかもイエス様と一緒に死んだと。まだ生きているパウロが、(当時まだ面識さえなかったであろう)イエス様と一緒に十字架にかかったという発言をどのように理解すべきなのでしょうか。イエス様が十字架につけられたことは確かなことですが、パウロが自分も「ともに」というのは言い過ぎではないでしょうか。イエス様の死は、罪の無い方の死でした。それは私たち(罪人)のための身代わりの死でした。それは私たちに及ぶはずの、神様からの罪に対する怒りを一手に引き受けての死でした。イエス様は私たちの立場にご自分を置いて十字架刑に処せられてくださいました。この事実に基づいて神様は、御子イエス様が十字架につけられた時にパウロも(そして私たちも)十字架につけられたと見なしてくださっているということです。そしてこの神様の見方をパウロは信仰によって宣言しているのです。
②古い私はすでに死んでいます →パウロはイエス様と共に十字架につけられた結果、自分はもはや生きていないと言っています。それはパウロが他の箇所で言っている「古い人」(ローマ6:6)のことです。これは神様との関係が断絶し、霊的に死んだ状態で、神様のお役に立つことは到底出来ない、無駄な生き方をしていることを説明しています。かつてのパウロは、律法を懸命に守ることで神様に認められようと、自分の努力によって生活の聖さを追及してきました。しかしイエス様に出会ったパウロは今までの生き方が神様の前に無駄であったことを知らされ、イエス様によって与えられる(行いではなく)恵みによる救いを信じ受け入れました。このことによりパウロの「古い人」は活動を停止したと宣言しているのです。とはいえ、クリスチャンの生活の中ではこの「古い人」がしばしば活動し、神様に喜ばれない生き方をしているのが現実です。「古い人」がイエス様と共に十字架につけられたこと(その立場)を認めると共に、それが生活で具体化できるよう神様から日々ちからをいただく必要があります。
③今 キリスト様が私の中に生きています →パウロはイエス様が自分の中で生きてくださっていることによって 今存在していると宣言しています。これはパウロの容姿や性格に大きな変化があったということでは必ずしもなく、霊的に生きる者(神様と交流する者)とされたことによって、今までとは全く違う自分が生きていることを言っているのです。神様に認められるために自分が頑張るというのではなく、心に住んでくださっている「キリストの御霊」(ローマ8:9)によってコントロールされる生き方に変わったということです。イエス様が十字架で成し遂げてくださったみわざ(共に十字架につけられたこと)を真実と受け入れ、それを土台として信頼しつつ歩む姿です。それは私が前面に出る生き方ではなく、「私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子」キリスト様があらわされる生き方です。
結論: 古い私は主と共に十字架刑に死に、新しい私は主にあって生きる者とされた →クリスチャンは霊的にイエス様の十字架刑、そしてイエス様の罪と死に対する勝利に参加させていただいた者です。イエス様と共に十字架につけられた者として扱われていることを覚えて感謝しましょう。そして自分の「古い人」はすでに死んでいることを認め続け、心に生きておられるイエス様に全面的に頼って委ねて歩みましょう。一人ひとりを個人的に愛してくださり、ご自身を捨ててくださったイエス様に栄光がありますように。