ある人は聖書の話を聞き、さらに関心を持ち、真剣にとらえ信じるに至ります。ある人は聖書の話を聞き、一定の関心を示し、ある程度重要であると考えながらも、信ずるところにまで到達しません。客観的には救いに関して「いま一歩」、「惜しい」と思われる人が存在します。
パウロと接触した総督ペリクスの姿はこのような人の姿を映し出しています。彼はキリスト教について詳しくても、キリスト教信仰について聞いていても、神様ご自身、そしてみことばの真実と向き合うことをせず、私腹を肥やすこと、自身の立場を守ることに一生懸命でした。以下のことを考えましょう。
I. 聖書のことばを頭で知るだけでなく心に受け止めましょう→ 人は聖書の知識だけでは救われません。クリスチャンの環境にいること、教会に長年通っていること、聖書を雑学的・趣味的に知っていることは、救いに至る助けにはなるかもしれませんが、自動的に救いを実現するものではありません。救われるためには、みことばが心にまで入り働く必要があるのです。
II. 聖書のことばの真実と個人的に向き合いましょう→ 一般論としてのキリスト教ではなく、個人的に聖書のことばが適用されなければなりません。みことばの真実は罪人にとって不快感を与え、心を切り裂くようなものもあります。しかし、それと向き合い謙遜に応答する人に希望があり救いがあります。
III. 神様との個人的関係を第一に考えましょう→ 人はこの世の中のこと、お金のこと、自分の地位などへの執着があると救いに至ることが妨げられます。神様のことや神様との関係を正常化することを優先すべです。“対神関係”を一番に考えましょう。
まとめ:今日は救いの日です→ パウロから福音を聞いていた総督ペリクスは「おりを見て」と言いました。人生において一番重要な神様との関係、罪の問題の解決、死後の永遠の備えは、今日しておくことが大事です。“時間があったら”とか“また今度”と言っている間に生涯の終わりが来てしまうかもしれないからです。定期的に聖書のことばを聞いている人に特に勧めたいと思います。聞いている、知っているだけではイエス様の救いは自分のものとはなりません。今一度聖書を自主的に読み、みことばが自分に持つ意味をよくよく考えてください。自分が神様の前に罪人であることを認めるなら、そしてイエス様の十字架の死は罪人である自分のためであったと認めるなら、神様に伝えましょう。これができるならあなたは救われるのです。(すでに認めているなら自分が信じていることをみことばから確認しましょう)あなたがすでに救われているなら、そのことを公表し、(イエス様に従う第一歩として)バプテスマを受けましょう。そしてイエス様をかしらとした教会の一部となり、みことばの学びと聖霊なる神様の導きの中で霊的成長へと導かれてください。